★ 挑め、剣の塔! ★
<オープニング>

 波乱に満ちた2006年もつつがなく無事に終わり、銀幕市への感謝をこめて催された忘年会及び新年会も賑やかに幕を閉じ、地獄がいつもの平穏と喧騒を取り戻したのは、一月を少し過ぎた頃だった。
 八大地獄連山及び八寒地獄大森林群、その他諸々の呵責地域には罪人が戻され、彼ら彼女らの断末魔の絶叫が心地よい風に乗って届く、そんな日常が地獄には戻ってきていた。
 地獄の門番にして魔王の片腕、更に地獄で一二を争う貴公子たるゲートルードは、その日、彼が忠誠と友愛のすべてを捧げ尽くして仕える主人とともに、新年最初の仕事に従事していた。
 罪人への呵責、罪の浄化のために存在する地獄だが、死者を裁く冥王とは違い、地獄稼業に従事する悪鬼たちや、そもそもの地獄の住民である悪魔たちを統率する魔王の仕事は、新年早々という意味ではそれほど忙しくはない。
 人間は途切れることなく、時期や季節などお構いなしに罪を犯し、次々と送り込まれてくるが、悪鬼悪魔たちは魔王の名の元に普段から統率され、それほど大きな問題を起こすことはないからだ。
 とはいっても悪鬼は悪鬼、悪魔は悪魔なので、まったく問題がないとは言い切れないのだが。
 しかし、銀幕市に実体化して早数ヶ月、最初は人間たちと交わることをよしとはしていなかった一部の悪鬼悪魔たちも、先日行われたツアーの一端で、とある少女に陥落させられ、すっかり人間に夢中になってしまったと聞く。
 そもそも、罪人などという荒んだ連中と長く付き合ってきている地獄の悪鬼悪魔たちである。
 生身の、輝くような生気に満ちた、明るい、希望あふれる眼差しの人間など、まったく別次元の、まぶしすぎる存在なのだ。エネルギーに満たされた瑞々しい身体、きらきら輝く目、弾む声、しなやかな思考、そのどれもが、地獄の罪人たちには存在しないから。
 だから、地獄の住民たち、責める側の連中の、目下のところの興味及び願望は、もっとたくさんの生身の人間が地獄に遊びに来ないだろうか、とか、一度は地上に出て人間社会を見学してみたい、とか、そういう他愛ないものとなっていた。
 紅蓮公ゲートルードもそのひとりで、彼は、とても楽しかった忘年会及び新年会を思い起こしながら、またあのような賑やかな催しがあればいい、などと思っていた。
 思いつつ、書類にサインをし、印を押し、配下の悪鬼に各役所へ持って行かせる、という作業を繰り返していたゲートルードは、
「……ゲイル」
 不意に、地獄のまつりごとを司る偉大な王が、彼の愛称を呼んだので、ペンを繰る手を止めて彼を見遣った。
 魔王が優美な動作で軽く手を振ると、彼の意図を正しく理解した悪鬼たちが深々と一礼し、部屋から出てゆく。
「は、魔王陛下」
「今ここには我とそなたしかおらぬ、ルシェでよい」
「もったいないお言葉……。して、いかがなされました?」
 微笑んだゲートルードが問うと、目映い金眼、完璧なるアーモンド・アイズをすっと細めた魔王は、白い繊指をかたちのよい顎にそっと添え、
「……先日のあれは面白かったな」
 玻璃細工を震わせるかのごとき美しい声で楽しげに言った。
 ゲートルードの笑みが深くなる。
「は。わたくしも楽しい思いをさせていただきました。ルシェ陛下のご配慮に感謝したします」
「我も楽しんだ、礼を言う必要はない」
「御意」
 地獄の誕生と同時に、冥王と時を久しくして生まれ、数多の時間、ゲートルードなど赤子同然の、永遠に近しい時を生きてきたこの王は、地獄においては全知全能の、並ぶ者なき存在である。
 強大すぎる力を持つゆえに、彼が自ら動き、手を下すことはほとんどなく、また、この館から出ることも滅多にないが、しかし彼は、地獄で起きるすべてのことを理解し、認識し、見守っているのだ。だからこの王が、場には加わらずとも、かの宴のすべてを見届けていたのは当然のことでもあった。
 同時に、彼が私利を一切挟まぬ厳しさで持って常日頃から責務を果たしていることを知っているゲートルードは、あの賑やかな、生気に満ちた宴が、陛下の気を少しでも晴らしたならいい、と思っていた。
 魔王もまた、臣下のそんな気持ちをよく理解しているだろう。
 だからゲートルードは、全知全能、唯一絶対の魔王陛下が、美麗に過ぎる、美しい弧を描く紅唇を笑みのかたちにし、
「あの、コロッセウム。もう一度あのようなものが観たい。あれはほんに面白かった」
 そう口にした時点ですっくと立ち上がった。
「ベル、アスト!」
 そして、ふたりの側近を呼ぶ。
 人間の子供が聞くと泣き出すほどの胴間声が部屋を震わせると、
「はい、閣下」
「いかがされましたか?」
 いつ何時でもゲートルードの命に忠実なふたり、地獄でも十指に数えられる実力者でもある悪魔たちが、気配ひとつ感じさせずに現れ、彼の前に膝を折った。ゲートルードは重々しく頷き、口を開く。
「魔王陛下が武道会をお望みだ。あの、先日のコロッセウムのように、銀幕市の方をお招きして開催する」
「御意。では俺は会場の準備を」
「わたくしは告知を。地獄からも参加者を募りますか?」
「そうだな、その方が面白い。銀幕市の方々は猛者ばかりだ、問題はなかろう」
「ああ、場所はどうましょう、閣下。剣鬼ノ庭でいいですか?」
「ああ……そうだな」
 そうしよう、とゲートルードが言うよりも早く、
「剣の塔を使え」
 美しく巻かれた金の髪を揺らして魔王が言った。
 ゲートルードは言葉に詰まる。当然、感動のあまりだ。
「……よろしゅうございますか。かの神聖なる死の担い場を」
「無論。我も楽しい。人間たちには得難い経験となろう」
「承知いたしました。ならば、ロケーションエリアの展開及び特殊能力の使用は不可能となりますから、刃と刃、拳と拳の語らいということですね。素晴らしい。戦いとはかくあらねばなりません、これはさぞかし見応えのある武道会となることでしょう」
「そうだな。負傷者のことは案ずるな、手足がもげ、はらわたがはみ出そうとも、息さえあれば我が再生してやろう」
「御意。ではそのように」
 ゲートルードは魔王に向かって膝をつき、恭しくこうべを垂れる。
 側近ふたりがそれにならった。
 そのとき、悪魔の片割れ、劫炎公とも称されるベルゼブルが、ふと思いついたと言うように口を開く。
 短く切り散らした銀髪にアイスブルーの目は、炎とは無縁にも見える。
「陛下、閣下、賞品はどうします? 確か、ああいう催しには、優勝者に豪華な賞品が出るんですよね」
 口調がややフランクなのは、彼がもともとは下層出身なのと、魔王やゲートルードとの付き合いが長い所為だ。魔王もゲートルードも、そもそもあまり礼儀や格式にはうるさくないというか無関心なので、泣く子も……どころか泣き喚く罪人すら黙る実力者たる彼の、親しさを含んだ無礼がとがめられたことはない。
「ふむ」
 魔王が繊手をおとがいに当てる。
「やはりここは、最高の栄誉と美姫の口づけであろう」
「なるほど、定石ですね」
「最高の栄誉でしたら、陛下、剣の塔には"勝者の業冠"がございますね」
「うむ」
「じゃあ、美姫役はどなたにお願いしましょうか。地獄の姫君方は、剣の塔を極めた猛者になら口づけのひとつやふたつ惜しまれない、というかむしろ唇のひとつやふたつ強引に奪いに行かれそうですが……」
「生憎、貴婦人方の大半は銀幕市へ観光にお出かけです」
「ああ、そうだったな。では……見目のよい、都合のよいものを誰ぞ調達させよう。何なら、そのまま嫁がせてもよい。強き血が入ることは、我が地獄にとってものぞましい。ではアスタロト、頼んでもよいか?」
「頼むなどともったいない、お命じくださいませ。一命に変えましても遂行いたします」
「うむ、では……行け」
「御意」
 深々と一礼した悪魔、凄闇公とも呼ばれるアスタロトが、長い黒髪をひるがえして退室する。
 ゲートルードはその背を頼もしげに見つめ、それから準備に取りかかった。
 数少ない魔王の願望を叶えずして何が臣下か、と思うのと同時に、人間たちとふれあえる機会が出来たことを胸中に喜ぶ。
 きっと、あの、表情豊かで賑やかな人間たちは、地獄にまたたくさんの彩りをもたらしてくれることだろう。

 ――ちなみに、凄闇公アスタロトが、荒縄でぐるぐる巻きにされた人間の剣士・唯瑞貴を担いで帰るのは、そこから五時間が経ってからのことである。



 何が起きているのかさっぱり判らず、唯瑞貴は、芋虫のような姿で、魔王と紅蓮公双方兼用の執務室の床に転がっていた。
 優美な外見に似合わぬ怪力でアスタロトに縛り上げられ、縄が身体に食い込んでかなり痛いのだが、それにも増して、疑問というか疑惑というか何かまた妙なことに巻き込まれるんじゃないかという不安というか、とにかくそんな諸々の感情が脳裏に渦巻いている。
 映画内でもそうだったが、銀幕市に実体化して以降、妙なことや厄介事に巻き込まれる確率は飛躍的に上がっていたから、それへの警戒もひとしおで、ついさっきまで、新年に賑わう銀幕市をのんびり歩いていたはずなのに、何故こんなことに、と溜め息をつく。
 時折すれ違う見知った顔に挨拶しつつ、何をするでもなく、しかし楽しく町を歩いていた唯瑞貴の前に、義兄ゲートルードの側近であるアスタロトが姿を現したのだ。
 ゲートルードの傍を離れることのない武官が何故、と訝しく思うよりも早く、仕方ない、これで我慢しよう、と微妙に失礼なことをつぶやいたアスタロトに問答無用でロケーションエリアを展開され、生身の人間に使うなよそんなもの、というくらい強力な魔法に打ち据えられて目を回したのが三時間ほど前のことだ。
 気づいたら罪人よろしく荒縄でぐるぐる巻きにされ、地獄の支配者たる魔王陛下の御前に転がされていたわけだが、何がどうしてこうなったのかさっぱり判らない。
 部屋には、魔王とアスタロトの他に、義兄のもうひとりの側近ベルゼブル、更に義兄ゲートルードの姿もあって、とりあえず事情を説明してくれと口を開きかけた唯瑞貴だったが、彼を見下ろして深々と溜め息をついた当の義兄が、
「これしかなかったのか」
 ものすごく不本意そうにそう言ったので、思わず額を固い床に打ち付けそうになった。
 私の意志完全無視でなんだその言い草、と思いはしたが、言ったところで改善されないことは十数年の付き合いで理解している。
 アスタロトの方は小さく頷いて、
「地獄の姫君方を呼び戻そうかと思ったのですが、大変楽しそうに初売りとか言う行事に参加しておられたので、申し訳なく思いまして」
 ……私には申し訳なく思わないのか、とは唯瑞貴の心からの突っ込みだが、人間社会とは一線を画した価値観、考え方の持ち主である地獄の貴公子たちに言ったところで無駄だろう。
 そもそも唯瑞貴は突っ込み体質などではなく、むしろ同胞たる人間たちからは感覚がずれているずれていると言われている類いだが、地獄の雲上人たちの前ではその程度のずれなど可愛らしい齟齬に過ぎないと思う。
「かといって、見目がよいからと銀幕市民の皆さんや他映画のムービースターたちをさらってくるわけにも行きませんし、天国に協力を要請するには時間がありませんし」
 言ったアスタロトが、細腕からは想像もつかないような怪力で縄の端っこを掴むとひょいと持ち上げ、魔王の前に唯瑞貴を転がす。
「見目さえよければいいのなら、と、こちらを」
 しかし、恐ろしいほどの無造作さだ。
 正直、この側近氏はどうも、心酔するゲートルードの義弟というものが気に食わないらしく、ことあるごとにこういう扱いをしてくれるのだが、今回はことさらひどい。
 あまり物事には動じない唯瑞貴もちょっと泣きたい気分になった。
 ちなみに親友であり忠実な侍従であり勇猛なる守護者でもある双頭の巨犬オルトロスは、そもそも地獄の貴族たちに育てられたという事情もあって、アスタロトに牙を剥くどころか、目を回している唯瑞貴の傍らでアスタロトにじゃれ付いていたようだ。
 なんだろうこの不幸ぶり、と胸中につぶやいていると、
「ふむ……少々図体が大きすぎる気もするが、まぁ、よかろう。余興は余興だ、彩りのひとつであればよい」
 魔王陛下が鷹揚に、かつ唯瑞貴に対しては大変失礼なことを言い、周囲の悪鬼悪魔たちが御意、と頭を垂れた。
 唯瑞貴はいつ目にしてもハイインパクトな魔王陛下を見上げる。
 ものすごい嫌な予感とともに。
 身長160cm前後、黄金に輝く長い髪を見事な縦ロールにして白いレースで縁取りされた漆黒のリボンで結い上げ、フリルとリボンとレースで彩られた漆黒の衣装、地上ではゴスロリなどと呼ばれている類いの服を身にまとった、傍目には完璧なる美少女としか思えないこの人物が、地獄で一番長生きの魔王、しかも男だなどと、一体誰が判ってくれるだろうか。
 彼は、華奢でしなやかな肢体と、陶器のような滑らかな白皙、薔薇の蕾のような唇、そのどれもが、女性の誰もがこうありたいと願うような、完璧なる美のかたちをそなえているのと同時に、その全身から、思わず居住まいを正さずにはいられない、背筋を氷の刃で撫でられるような威圧感、強烈な神威を含んだオーラが噴き上がり、渦巻き、たゆたっている。
 こんななりではあれ、最強、最恐と呼ぶに相応しい実力を持つ、民思いのよき王なのだが、少々長く生きすぎている所為で、思考回路が一般人とは百八十度以上ずれている。
 何を言っても無駄だろう、どうせなし崩しに流されるだけだろうと思いつつ、とりあえず唯瑞貴は口を開いた。
「……魔王陛下。これはいったいどういうことなのか、説明していただけるとありがたいのだが」
 死と闇と地底の王国の体現者たる魔王を目の前にして、怯えることも動じることもなくいられる同映画出身の生身の人間は唯瑞貴だけだ。
 『天獄聖大戦』において、魔王は、魔なるもの、地底の神なのだから。
 ――が、義兄ゲートルードの桃色フリフリエプロン姿ほどではないものの、中身を知った上で観ると目にしみること間違いなし、の出で立ちの魔王が艶然と微笑むだけで脱力する。実体化し、銀幕市というリアルの世界で暮らすにつけ、何か違う、と思わずにはいられない。
「説明か。うむ……そうだな」
 深紅のマニキュアが施された美しい指先を顎にあて、鷹揚に頷いた魔王が口を開く。
 それを諦観とともに見つめつつ、唯瑞貴は、とりあえず早く帰りたい、などと思っていた。

 ――唯瑞貴が、自分が何のために連れてこられたかを知って青褪めるのは、そこから十分後のことである。

種別名シナリオ 管理番号54
クリエイター犬井ハク(wrht8172)
クリエイターコメント皆さん、再度明けましておめでとうございます。
2007年第一弾、地獄シリーズ第五弾シナリオをお届けいたします。
初っ端から濃いぃ、コメディなオープニングで大変申し訳ありません。

初登場、の魔王陛下が、先日行われたコロッセウムでの試合を大変お気に召したため、もう一度地獄で開催する運びとなりました。
場所は剣の塔、地獄においては最強の猛者を決める場所です。
ここではロケーションエリアの能力や、通常使用しておられる特殊能力は一切使えません。魔法アイテムや、そういった付加価値のある武器防具も用を為しません。剣の塔でものを言うのは純然たる武の腕前、鋼の胆力と強い意志のみです。
武器の使用は認められておりますので、傷を負われることもあるかと思いますが、魔王陛下が万事うまく収めてくださいますので心配はご無用です。思い切り挑んでください。
優勝賞品は、剣の塔を極めた者だけが戴くことを許される最高の栄誉"勝者の業冠"と、何がなんだか判らないうちに美姫役を押しつけられた某剣士の運命です。特に後者はわりと切実なようなので、よろしければ助けてやって下さい。

ご参加に当たって、プレイングに書いていただきたいことは四つ(もちろん、これ以外にさせたい行動があれば書いていただいて結構です)。
1.戦闘スタイル
2.使用武器
3.組み合わせ及び勝敗判定用の数字(【1】〜【9】)
4.優勝した際の賞品二点のお取り扱い

以上をお書き添えの上、どうぞ競ってご参加くださいませ。
参加されたメンバーによっては、人間関係や駆け引きに関する諸々を描いていただいても面白いかもしれません。

なお、どなたでもご参加はいただけますが、シナリオの構成上、戦闘を得意とされない方にはご活躍いただけない場合もございます。あらかじめご了承くださいませ。

そして、戦いの開始前に口上のようなものを述べていただこうかと思っておりますので、もしよろしければ、名乗りの口上及び決め台詞を二三点、お書き添えいただければ幸いです(二つ名を名乗る、「●●(人名)、推して参る!」などの類い)。なかった場合、犬井が捏造しますので悪しからず。もしも字数が足りないようでしたら、クリエイター説明欄を使っていただいても結構です(その場合、商品納品までは変更しないで下さい)。

それでは、皆さまのご参加を楽しみにお待ちしておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

参加者
シュヴァルツ・ワールシュタット(ccmp9164) ムービースター その他 18歳 学生(もどき)
ブラックウッド(cyef3714) ムービースター 男 50歳 吸血鬼の長老格
ルイス・キリング(cdur5792) ムービースター 男 29歳 吸血鬼ハンター
理月(cazh7597) ムービースター 男 32歳 傭兵
来栖 香介(cvrz6094) ムービーファン 男 21歳 音楽家
八之 銀二(cwuh7563) ムービースター 男 37歳 元・ヤクザ(極道)
トト・エドラグラ(cszx6205) ムービースター 男 28歳 狂戦士
クレイジー・ティーチャー(cynp6783) ムービースター 男 27歳 殺人鬼理科教師
<ノベル>

 1.余興のはじまり

 その日、その誉れ高い場には、十人弱の銀幕市民と、二十を少し超える数の地獄住民たちが集まっていた。
 戦いへの期待と喜悦に目を細める者、戦意を滾(たぎ)らせる者、知り合いに声をかけ、健闘を誓い合う者など、周囲は様々なやりとりに満ち、静かに熱を帯びて賑わっていた。
 ――剣の塔。
 今、彼らがいるのは、死と裁きを司る地獄において、真に強き者を決するため、その時だけに足を踏み入れることが許される貴い場所だ。その名を口にするとき、すべての地獄住民たちが深い畏怖と敬意とを浮かべ、胸にそっと手を当てて頭(こうべ)を垂れるという。
 そもそものつくりは、先の忘年会で使われた剣鬼ノ庭とそう大差ない。いわゆるコロッセウム形式の場所だ。
 剣鬼ノ庭との大きな違いは、戦いの場が、傲然とそびえ立つ巨塔の内部に存在するということだろう。
 剣の塔の内部、建物の中とは思えぬほど広大なそこには、大理石か黒曜石を彷彿とさせる、美しい艶のある石のリングが設置されている。よく磨かれ、側面に美しい彫刻の施されたそれは、天窓から降り注ぐ陽光を受けて、そこに立つものの顔すら鮮明に浮かび上がらせるほどだ。
 いかなる技術を用いて造られたものなのか、そのリングは、直径が五十メートル、厚さが二メートル以上あるにもかかわらず、どこからどう見ても一個の巨石から切り出されたものとしか思えないつくりとなっている。つまり、どこにもつないだあとが見受けられないのである。
 造り出した方法も判らなければ、これを内部に運び込んだ方法も判らないという、途方もない細工物だった。
 リングの周囲には、コロッセウムのような、リングを取り囲む形状の、階段状の客席がひしめいている。古代ローマのコロッセウムのように、何万人もの人間が入れるわけではなかったが、少なくとも、今のこの場には、千人を軽く越える観客が集っていた。
 地獄住民の姿もあれば、評判を聞きつけて見学に来たと思しき銀幕市民の姿もある。
 観客の誰もが、これから始まる激しい戦い、戦士たちの歓喜と熱気と巧みなわざとを期待して心を躍らせているのだ。
「やー、すごいお客さんダネ。先生興奮しちゃウヨ、ホント」
 心底楽しげに言うのは、凶顔の殺人鬼理科教師クレイジー・ティーチャーだ。CTの愛称で呼ばれる彼は、大きな――彼の役どころにおいては凶悪な、と表現すべきだろうか――ハンマーを手に観客席を見渡している。
「けど、どうやって組み合わせを決めるんだろな。銀幕市代表がオレたち八人としても、向こうにゃ二十くらいいるだろ。くじかなんかやんのかね」
 すらりとした長身を黒いコートに包んだ来栖香介が、中性的な美貌に疑問を浮かべて首を傾げれば、
「案外、こっち対向こうの混合バトルだったりして。……そういうのも面白そうだけど」
 冗談めかした、しかしそれはそれで構わないという意識を含んだ声で返したのはシュヴァルツ・ワールシュタットだ。少年の姿をしてはいるが、実際にはヒトとは一線を画した妖物である。
「いいね、それ。悪くないじゃん」
 シュヴァルツの言葉に香介が笑うと、
「ふむ……だが、実際、どうなんだろうな。ここに案内されてからしばらく経つが、なかなか次の動きがない。何をどうしろというんだろう?」
 八之銀二が低い、渋い声で疑問を呈する。クレイジー・ティーチャーにも香介にもシュヴァルツにも、答えられるはずもなく、銀二が一同を見渡すと、彼らは軽く肩をすくめて首を横に振った。
「ま、いいんじゃねぇの? いずれは始まるさ、そのためにここに来たんだから。ウォームアップってことで、準備運動でもしてようぜ」
 どこまでも陽気な声は獅頭の獣人、トト・エドラグラのものだ。
 金の鬣(たてがみ)を揺らしたトトが、銀幕市に実体化して覚えたというラジオ体操を始めると、苦笑して頷いた銀二と、それもそうだとつぶやいたシュヴァルツがそれに倣(なら)う。
「ま、そういうことだろ。こういうでかい催しがスケジュール通りに進まねーってのはよくあることだしな。ならオレ、誰かと組み手でもしてカラダあっためてよっかな」
 鮮やかな青の目で茶目っ気たっぷりにウィンクし、身体をほぐす仕草をするのは吸血鬼ハンターのルイス・キリングだ。黙っていれば普通に二枚目なのに、とは周囲の言葉だが、事実、ふざけた軽い言動がなければ、さぞや女たちに取り囲まれることだろう。
 黒を基調とした「教会」用の戦闘服、裾の長いコートのような上着の下に、白の正十字が描かれた銀の胸当てをつけた姿など、実に様になっている。……なっているのだが、それだけではすまないのがルイスのルイスたる所以なのである。
「なあなあクルダー、オレと組み手しね? 可愛がってやるからさー」
「……てめぇその口閉じねぇと今この場でブッ殺すぞ」
「やーん、クルダーったら照れ屋さんなんだからぁ」
 眦を厳しくし、一気に臨戦態勢を取る香介に、身体をくねらせたルイスが投げキッスを放つ。
 そういうことばかりするから「黙っていれば」という修飾語を常につけられた状態で語られるわけだが、それは彼が、心のうちを伺わせぬためにまとった鎧のようなものだ。誰かに指摘されたところで今更改まるはずもない。
 だが、それに巻き込まれる方が斟酌してくれるかと言うとそんなはずもなく、香介の眉根が絶望的なまでに寄った。ぴりぴりとした敵意、殺意と呼んでも問題なさそうなオーラが、香介のしなやかな痩躯から立ちのぼる。
「駄目だ辛抱ならねぇ今すぐ潰す!」
 宣戦布告とも取れる言葉とともに、なにやら色々あったらしいふたりが(というか殺意充満中なのはその片方だが)睨み合うと、その隣から盛大な溜め息がこぼれる。
「なにやってんだふたりとも。まだ始めの合図もねぇのに殺し合うなよ頼むから。いや、どうせやることは同じなんだろうけどな……」
 困ったように眉根を寄せ、ふたりの間に割って入ったのは、双眸の銀以外はすべてが黒という傭兵、理月だった。いつも通りの、漆黒の動きやすそうな武装に、腰には片刃の東洋剣『白竜王』を佩いている。
 戦場で鍛え上げられ続けている者だけが持つ、厳しく強い気をまとった、鋭い眼差しの男前だが、今の困惑顔からは、その内面が案外やわらかいことが見て取れる。実際、獰悪な戦場に身を置き続けているわりには、歪みのない闊達な言動をする男だった。
「うるせぇよ、あんたに関係ねぇだろ」
 無論それで収まるはずもなく、険しい表情のまま香介が吐き捨て、理月が再度溜め息をつくと、くすり、という笑い声が上がった。香介が柳刃のごとき眉を跳ね上げる。
「んだよ、なんかおかしいか?」
 挑むような目に怯むことなく、穏やかな微笑を返すのは、吸血鬼の長老格にして愛の伝道師の異名を持つブラックウッドだ。
 今日もまた洒脱な、レディキラー、マダムキラーの面目躍如といった、きらきらしい高級ブランドではないものの、趣味のいいスーツに身を包み、颯爽と……飄々とその場に佇んでいる。
 その姿だけ観れば、貴婦人とのデートに赴く紳士と大差ない。
「いいや、別におかしくはない。ただ、血気盛んなことだ、と思っただけだよ。それもまた一興、続けてくれたまえ」
「……そんな冷静な目で言われちゃ萎えるっつーの。判ったよ、ブッ殺すのはあとにする」
 フンと鼻を鳴らした香介が踵を返し、ルイスの傍を離れる。止めてもらったという意識は多少なりとあるのか、離れる際に理月の肩をぽんと叩くのも忘れない。理月が苦笑して肩をすくめた。
 そこへ、タイミングよくトランペットのファンファーレが鳴り響いた。
 一同が視線を巡らせると、リングにもっとも近い位置にある客席、明らかに貴人のためと思しき装飾のなされた座席へ、銀幕市民にはお馴染みの紅蓮公ゲートルードと、青銀の髪にサファイアの双眸をした美麗な人物を両脇に伴った魔王陛下が腰掛けたところだった。
 黒絹に白のレースやフリルで美しい装飾がなされたゴシック&ロリータの衣装、輝くような黄金の巻き毛に可憐なリボン、淡くはあるが完璧に施された化粧というその出で立ちはどこからどう見ても十代半ばの娘、完璧なる美をたたえた少女でしかない。
 魔王がゆったりと腰かけると、その両隣の座席にふたりの側近が座る。
 赤を基調としたゲートルードの対のごとき青の人物は、蒼氷公と呼ばれるもうひとりの貴公子だろう。しなやかな長身をかっちりした武装に身を包んでいるが、顔立ちは女性にしか見えず、身体つきはほっそりしている。
 更に、今回の『賞品』の片割れである剣士、唯瑞貴が、悪鬼たちに周囲を取り囲まれるようにして登場し、魔王の足元に座り込んだ。
 勝者を労う『美姫』という役どころのはずなのに、思い切り両手を縛められ、動きを制限されているのが涙を誘う。とはいえ、言ってみれば手を縛られているだけなのだが、色々と諦めているのか、逃げようとする様子はなかった。むしろ、何度か試してみても無駄だったのかもしれない。
 鷹揚に微笑んだ魔王が、ゆったりと手を掲げると、会場から割れんばかりの歓声が上がった。深紅のマニキュアで彩られた爪が、陽光を受けてきらりと輝く。
「皆の者、大儀である……よくぞ集った。今日は存分に楽しめ」
 その言葉に応えるように、また歓声が上がる。
 魔王を讃える熱っぽい声があちこちから聞かれた。
 頷き、微笑んだ彼が、座り心地のよさそうな座席に身を沈めると同時に、紅蓮公ゲートルードが立ち上がり、リングに集う人々を食い殺さんばかりの鋭い目で睥睨した――ように見えるが、本人としては穏やかな目つきで見つめたつもりのようだ――。
 地獄の悪鬼たちも震え上がる胴間声が、会場内に響き渡る。
『それではこれより武道会を開催させていただきます。試合はトーナメント方式で、エントリー枠は十名。よって、まずは予選を行います』
 リング上に、ざわり、とざわめきが走る。
「予選か……どんな方法でやるんだ?」
 香介のつぶやきはその場にいた全員の内心を代弁していた。
『現在盤上には、二十三名の地獄民と、銀幕市よりお招きしたお客様八人がおられます。参加者の皆さまには、今からその数が十名になるまで戦っていただきます』
 つまり、自分以外敵、の乱戦だ。
 クレイジー・ティーチャーが腕が鳴るネェと凶顔を笑み崩れさせ、来栖は目を細めて周囲を見渡し、シュヴァルツは面白そうだとつぶやき、銀二は苦笑して拳を握ったり開いたりした。トトは150cmほどもある巨剣を鞘の上からぽんと叩き、ルイスは陽気に笑ってよッしゃやるか、と腕を回し、理月は腰の『白竜王』を確かめるようにその鞘に触れ、ブラックウッドは深い穏やかな笑みとともに周囲へ視線を走らせる。
 盤上の地獄住民たちが、色もかたちも様々な目で、銀幕市民たる八人を見ている。それは値踏みのようであり、観察のようでもあった。
 観客たちがざわざわとさんざめく。多分に、期待を含んで。
『全試合通してルールは簡潔です。いかなる手を用いてでも、相手を打ち倒した者が勝者となります。なお、戦闘不能に陥った者、意識を失った者、敗北宣言をした者、リングの外へ出た者は負けとなりますのでご留意ください』
 簡単な説明とともに、ゲートルードがごつい手を天へ掲げると、はじまりを告げるためのトランペットが、奏者たる悪鬼の口元へ寄せられた。
『では、始め!』
 胴間声が周囲を震わせると同時に、金管楽器特有の鋭い音が空気を切り裂いた。
 こうして、最強の猛者を決める戦いの幕が切って落とされる。



 2.乱戦、混戦、三つ巴!

 リングは、にわかに騒然とした。
 開始が告げられると同時に動いたのは香介だ。
「とりあえず……潰す!」
 磨き上げられたナイフを片手に、彼が突っ込む先には、ルイス・キリングの姿がある。彼の視線もまた、香介を捉えている。
 青い双眸が楽しげに細められた。
「何だよクルダー、オレとやろうってのかい? もてる男は困るねぇ」
 おどけた口調とは裏腹に、身体はすっかり臨戦態勢だ。そこにはわずかな隙すらない。
「うるせぇ黙れ、それ以上ひとっことでも喋れば殺す!」
 引き攣ったような、無理やり浮かべたと思しき凄絶な笑みとともにルイスの元へ到着した香介が、非常にこなれた動きでナイフを宙に滑らせ、ルイスの首筋を一直線に狙って突き上げた。
 戦いを楽しむというよりはストレートに殺る気満々だ。
 ヒュッ、と空気を切る音がして、そのあまりの鋭さに、死の銀刃を避けつつも、ルイスは思わず口笛を吹く。
「うはあ、おっかねぇ。クルダーの愛情表現は過激すぎだぜ。ルイス困っちゃう〜」
「黙れ、今すぐ肉塊になってオレに詫びろ!」
 そうやって、数分ばかり、傍から見ると真剣に殺し合っているのか命をかけたじゃれ合いをしているのか微妙に判り辛いやりとりを続けていたふたりだったが、轟と上がった鬨の声とともに、脇から地獄の悪鬼悪魔たちが勢いよく突っ込んできたため、左右に分断されることとなった。
「チィ、退け! オレの用があんのはそいつだけだ、邪魔すんじゃねぇ!」
 舌打ちする香介の前に、隆々たる肉体を持った牛頭鬼と馬頭鬼が一体ずつ立ち塞がり、爛々と輝く目で彼を睨み据えた。興奮しているのか、大きな鼻からふいごのような勢いで熱い呼気が吐き出されていた。
 香介の目がすっと細められる。
 ――彼は彼の意志や思惑を妨げるものを許しはしない。
「後悔すんなよ……!」
 言葉とともに牛頭鬼の懐へするりと入り込み、彼が次の動きを取るよりいくらか早く、大きな顎に下方から打ち上げた強烈な肘突きを食らわせると、がふっ、という音とともに牛頭鬼が吹っ飛んだ。
 それで更に興奮したらしく、鼻から火さえ吐き始めた馬頭鬼の猛攻を掻い潜り、香介はルイスを探す。
 その時ルイスは梟の頭を持った悪魔と対峙していた。
 彼はサーベルのような剣を手に、理知的に輝く目でルイスを見ていた。
 ルイスもスッと冷静になる。
 戦いは常に彼を冷ややかにし、同時に抑え難いほど滾(たぎ)らせる。まるで麻薬のようでもあった。
「いざ、参る!」
 高らかに告げた梟頭の悪魔が、恐ろしく正確で速い踏み込みとともに突っ込んでくる。ぎらりと輝くサーベルが、慈悲も躊躇もなくルイスの急所をめがけて突き入れられたが、
「うひょお、やーっぱ地獄ってすげぇなあぁッ! このスリルと興奮、たまんねえぜ……!」
 ぺろり、と唇を舐め、ルイスはわずかに身体をひねってそれを避けた。
 必殺の一撃をかわされたことで体勢を崩した悪魔の腕をつかみ、脚払いをかけて、勢いよくぶん投げると、その身体はリングの向こう側まで吹っ飛び、ずしんという音を立てて墜落した。
「ほい、脱落者一名、っと! さーて次はどいつだー?」
 楽しげな表情を崩さぬまま、ルイスは次なる犠牲者を求めて走り出した。
 その後方では、シュヴァルツが五本角の青鬼と向かい合っている。
 外見だけなら線の細い普通の少年でしかない彼に、しかし何か感じるものがあるのか、青鬼はなかなか仕掛けてこなかった。シュヴァルツは興味深げに目を細める。
「……地獄は面白いところだ。『オレ』が判るのか」
 そもそも、地獄という場所で整然とした社会生活が営まれているところからして、獄卒たちが、決して、力だけの愚鈍な存在ではないことは判る。
 判るが、『自分』を嗅ぎ当てるその嗅覚に、シュヴァルツは興味と興奮を覚えずにはいられない。
 じりじりと動きながらこちらを伺っていた青鬼が、埒があかないと判断したか遂に仕掛けてきた。
「……参る!」
 巨体に似合わぬ俊敏な動きで突進してくる様は、鬼の総大将とでもいうべき紅蓮公ゲートルードのそれと似ていたが、パワーにせよスピードにせよ、やはり地獄の貴公子に敵うものではなかった。
「ああ……来い!」
 ぞくぞくとした、背筋を這い上がるような感覚を喜悦と呼ぶのだと理解しつつ、こうまで猛る己を稀有だと思わずにはいられない。この剣の塔には、そこに立つ者の戦意をかき立てる何かがあるのかもしれない。
 速度もパワーも十分に乗ったその体当たりを流れるような動きで避け、突進によって発生した風に頬を撫でられつつ、シュヴァルツは反撃に移る。彼のもっとも得意とする戦い方だ。
 青鬼は非常に素早かったが、攻撃が空振りに終わった一瞬、ほんの少し動きが鈍ったのをシュヴァルツは見逃さなかった。
 太い手首を掴み、もう片方の手で上腕を掴んで、青鬼に脚払いをかけ、わずかに体勢を崩した彼の腕を強く引っ張ると、更に身体がぐらりと傾ぐ。思い切り踏ん張り、自分の体重を十分に乗せて、柔道の要領で青鬼の巨体を投げ飛ばし、リングへと叩きつける。
 ずうん、という鈍い音がした。
 百キロは軽く超えるだろう巨体を相手に、少々『躯』に無理をさせすぎたか、背骨の辺りがびきり、という音を立てたが、シュヴァルツにとってそれは頓着するほどのことではない。壊れれば繕えばいいことなのだ。
 青鬼はというと、硬いリングに強かに打ちつけられた所為か、身動きも出来ない様子だった。
 シュヴァルツが近づくと、どこか晴れ晴れとした笑顔を見せ、
「……参った。銀幕市とは、まことに強者の集いたる場所よな……」
 感嘆の息とともに敗北宣言をした。
 シュヴァルツは肩をすくめ、お疲れさん、と労いの声をかけてから次の相手に向かっていく。
 その前方で身の丈二メートルを超える黒い悪魔とがっきり組み合っているのはトトだ。
「力自慢なら負けねぇぜ……?」
 獰猛に笑うトトに、山羊の角を持った黒い悪魔も同質の笑みを返した。
 鋼のごとき筋肉に鎧われた、地獄住民の代表のような男だったが、その漆黒の目は闊達で、笑顔はどこか悪童のようだ。
「おう、確かに凄まじき力だ。興奮が抑えられぬわ!」
「はっ、オレもさ!」
 烈しい戦いの場にあるまじき、邪気のない笑みを交わしたのち、ぱっと同時に後方へ跳び退いたあと、更に同時に地を蹴って、ふたりは激しい拳の応酬を始める。
 あまりの激しさに衝撃波が生まれ、近づこうとした第三者を弾き飛ばしたほどだ。
「……ぬしの名は?」
「トト・エドラグラ。白百合が王の刃」
「トトか。わしは剛魔が一体玄彦(トオヒコ)よ。ぬしと仕合えたこと、嬉しく思うぞ!」
「はっ……嬉しいね、そりゃ!」
 言葉とともに、また弾丸のごとき拳が打ち込まれる。
 ゴウッ、と、熱気が渦巻いた。
 トトの緑眼が喜色に輝く。剛魔の男の目も、同じ輝きを宿している。
「……楽しいねぇ」
 漏れたつぶやきには、恍惚すら含まれていた。
 トトにとって死は命がすべて向かう終着点だ。母なる神の御許へ逝くだけのことだ。
 彼はそれを恐れないし、生にひたすら執着することもしない。自分が十全と信ずる意義や意味、大義のために生き、そして死ぬだけだと思っている。それでこその生だと思っている。
 その生の中、こんなに楽しく戦えることを、彼は至上の喜びと感じる。
 なおも決まらぬ勝敗の中、他の参加者たちを衝撃波の巻き添えにしつつ、ふたりは危険な舞踏を続ける。いっそ、この時が永遠に続けばいい、とすら思いながら。
「うお……っと」
 トトと玄彦の打ち合いから発生した衝撃波を間一髪で避けたのは理月だ。
 彼はまだ刀を抜いてはいなかった。
 抜くほどの状況ではない、という判断をしたというよりは、ただ、純粋に喧嘩を楽しむような心持ちでいたからだ。
 何しろ今はまだ予選なのだ、ここですべての手を見せるような真似をするつもりはないし、彼は接近戦のプロだから、そもそも、武器など何もなくともヒトの身体を破壊し、その命を刈り取る技に長けている。傭兵とはそういうものなのだ。
 彼が今対峙しているのは一本角の鬼だ。角は銀で肌の色が灰色。ならば、灰鬼と表現するべきだろうか。
 灰鬼は決して大柄ではなかったが、東洋的な、非常に引き締まった肉体を持っていた。胸当てをつけただけの上半身には、あちこちに傷が走り、彼が歴戦の猛者であることを雄弁に物語っている。
 輝く金の目は、猫を彷彿とさせる。
 腰には剣があったが、それを抜くつもりはまだないらしかった。
「あんた……相当出来るな」
 理月がつぶやくと、灰鬼は微笑んだ。
 ひどく穏やかな、それでいて楽しげな笑みだ。
「そなたもな」
「俺は理月。あんたは?」
「銀角族が戦士、シン」
「……そか。んじゃ……行くぜ?」
 それが合図とばかりに地を蹴り、理月はシンへ突っ込む。
 シンは楽しげな笑みを崩さぬままに彼を迎えた。
「は……ッ」
 低い呼気とともに突き込まれた拳を、灰鬼はさっと姿勢を低くして避け、同時にくるりと地面を回転するや、理月に脚払いをかけてきた。
「っ、と」
 びゅ、と不吉な音を立てて低い位置を薙ぐ脚、まるで刃のようなそれをわずかに身を引いて避け、シンが体勢を立て直す前に、と追撃するが、これは読まれていたらしく、さっと遠くへ移動されてしまった。
 無論双方に逃げるつもりなどあろうはずもなく、次の瞬間には何の手加減もなく突っ込み、組み合う。
 手と手が相手を圧倒せんと力を込めると、双方からみしり、という鈍い音がしたが、今更痛みになど頓着する気もない理月は、むしろ充足感に笑みすらこぼした。
 観れば、シンもまた同じ笑みを浮かべている。
 武人とは、戦士とは、どこにいても、たとえ種族が違おうとも、結局似た者同士なのかもしれない。
 理月の脚がさっとシンの足元を払うと、完全には反応し切れなかったらしくわずかに身体が揺れる。そこを狙って踏み込み、胸倉を掴んで投げ技をかけてみたが、技をかけられた瞬間自ら力の方向に合わせて跳んだらしく、少し離れた場所に綺麗に着地されてしまった。
「くそ、楽しいじゃねぇか……」
 ふつふつと沸き上がって来る戦意と、戦いへの喜悦に、徐々にテンションが上がってゆくのが判る。こんなに楽しいのは久しぶりだ、とすら思う。
 同じ思いを抱いているらしいシンと向かい合いながら、理月は、次なる手を思案する。どうせ戦うからには、勝ちを収めたいと思う。
 静かに、しかし熱く対峙するふたりの更に後方では、ハンマーを手にしたクレイジー・ティーチャーが絶好調の叫びを上げていた。
「YaaaaaaaaaaHaaaaaaaaaa!!」
 その身体からは想像もつかないほどの俊敏さで周囲を飛び回り、地獄の悪鬼悪魔たちの攻撃など蚊ほども堪えていない風情で彼がハンマーを揮うと、身の丈二メートル近い巨躯を誇る地獄住民たちが、まるで鞠か何かのように容易く吹き飛んでゆく。
「Why Don’t You Kill Me? Or Can not? That’s Serious! さあ、もっと真剣に殺し合おウヨ……!」
 凶眼を爛々と輝かせ、ハンマーを振りかぶった彼が狂喜とともに叫ぶと、熊の頭と巨躯を持った悪魔がそれに応えるように吼え、クレイジー・ティーチャーへ突っ込んできた。
 一般女性のウエストほどもありそうな太い腕が、クレイジー・ティーチャーの横っ面を捉え、彼を吹き飛ばす。墜落の際、ごしゃっ、という鈍い音がしたものの、すでに生ある存在ではないクレイジー・ティーチャーにとってそんなものは問題ではない。
 それよりもなによりも、彼の闘争心と攻撃願望、殺戮への狂おしい渇望を満たしてくれる、そんな相手が目の前にいることこそが重要だった。
「あははははははは、あああああ、楽しいネエエエ!」
 哄笑とともに揮ったハンマーが、熊頭の悪魔とは別の、緑色の肌をした悪鬼を強かに打ち据え、リングの外へと弾き飛ばした。普通の人体なら当たった時点で身体が引き千切れていたほどの衝撃だったはずだが、さすが地獄の獄卒の面目躍如と言うべきか、呻きながらもすぐに身を起こしたから、地獄の住民たちは、普通の人間とは一線を画した体機能を有しているのだろう。
「あははは、あはあはあははっはははは! ああボクは一体どうしたらいいんだろう。こんなに楽しいのは久しぶりだ……どうしよう、楽しすぎておかしくなりそうダヨ! I’ll Kill You,I Want Kill You,I want to See Your Red&Crimson&Scarlet Blood!」
 けたたましい狂笑とともに、シンプルな、しかし狂った言葉を、まるで愛を囁くかのように告げ、クレイジー・ティーチャーは熊頭の悪魔へと突っ込んでゆく。悪魔もまた爛々と輝く金の目に、血と死への期待を輝かせ、轟くかのように吼えたあと、彼を迎え撃った。
 勝負はまさに一瞬。
 がつっ、ごつ、という鈍い音が響く。
 奇妙な静寂のあと、ぐらりと巨体を傾がせ、ゆっくりとリングへ倒れたのは熊頭の悪魔だった。
 即頭部に強烈な一撃を受け、吹き飛ばされた彼は、末期を彷彿とさせる痙攣に身体を震わせていたが、どことなく表情は満足げだ。恐らくこれも、魔王陛下が何とかするだろう。
「I’m Winneeeeeer! Yeaaaaaaaaaaah! さーて次はダレかナ……?」
 歓喜に満ちた雄叫びを上げるクレイジー・ティーチャーから少し、いやかなり距離を取りつつ、銀二は溜め息をついていた。
 気後れすることこそないものの、正直なところ、戦闘能力のレベルが違いすぎる気がして仕方ない。
「……もしかして、無謀なことをした、か……?」
 言いつつも、参加した以上は退くつもりも逃げる気もない銀二が、突進してきた悪鬼の一体を固めた拳で殴り飛ばし、彼がよろけたところを見計らってリングの外へ蹴り出したのと、
「いや、実に楽しいね。血沸き肉踊るとはこのことだろう」
 銀二のすぐ傍で、どこまでも優雅な、流れるように自然な動きで悪魔の背後に回りこみ、さっと腕をつかんだブラックウッドが、決して大柄ではないその身体からは想像も出来ないような膂力でもって、もがく悪魔の身体をリングの外へ放り出したのはほぼ同時だった。
 そしてそれと時を同じくして、
『……そこまで!』
 腹に響く胴間声が、空気を震わせた。
『トーナメント進出の十名、決定いたしました。ただちにくじ引きを行い、組み合わせを決定するとともに、三十分後に試合を開始いたします。しばしお待ちいただきますよう』
 参加者たちが動きを止め、周囲を見渡すと、銀幕市代表の八人の他に、剛魔玄彦と銀角族のシンとが勝ち残っていた。ふたりは、銀幕市民たちが当然だという表情でハイタッチし合う中、それを見つめながら獰猛で楽しげな笑みを浮かべている。
 慌ただしく駆け込んで来た獄卒たちが、戦闘不能に陥った者や怪我をした者をばたばたと運び出してゆく。
 十分ほどが経ち、すっかり綺麗になったリングの上で、一同が他愛もない話をしていると、再びゲートルードが声を上げた。
『組み合わせが決定いたしましたのでお知らせいたします。第一試合の開始は二十分後ですので、遅れることのありませんようお願いいたします』
 広げられた大きなトーナメント表に、それぞれの名前が踊る。
 結果、第一試合は香介とクレイジー・ティーチャー。
 第二試合はシュヴァルツ・ワールシュタットと八之銀二。
 第三試合はルイス・キリングとトト・エドラグラ。
 第四試合は理月とシン。
 第五試合は玄彦と第一試合の勝者。
 第六試合はブラックウッドと第四試合の勝者、となった。
 それを勝ち上がったものが、準決勝及び決勝へと進むこととなる。
「……楽しみだ」
 つぶやいたのが誰だったのか、頓着する者はなかった。
 誰もが、そう思っていたからだ。



 3.狂誇、狂悦、狂望のために

 すぐに第一試合の時間となった。
 香介もクレイジー・ティーチャーも、特に構えるでもなく、ごくごく自然な様子でリングの中央へと進んだ。
 そもそも互いに顔見知りだ、親しく言葉を交わしたこともある。油断は出来ないが、身構える必要もない。
「My name is Crazy Teacher! ……ま、今更だけどネ、お手柔らかにヨロシク♪」
 陽気にクレイジー・ティーチャーが名乗りを上げると、
「オレ、あんたといっぺんやってみたかったんだ。頼むぜ、楽しませてくれよな」
 戦意にぎらぎらと輝く眼が、凶顔の男を真直ぐに見詰める。
 クレイジー・ティーチャーは破顔した。それはそれは恐ろしい顔になったが、香介も楽しそうに笑っていたから、あまり堪えてはいないだろう。
「Don’t Mind! 心配ご無用、ボクだって楽しみたいからネ! 最善を尽くすよ、モチロン!」
 こういう場面で『最善を尽くす』ことが最善かどうかはさておき、双方ともにノリノリだ。戦意は炎のごとくに全身からほとばしり、熱波となって渦巻いている。
 審判役となったゲートルードがふたりの間に立った。
『それでは、始めさせていただきます』
 深々と一礼した彼につられるように、向き合った香介とクレイジー・ティーチャーもまた頭を下げる。どんな場面でも礼儀は必要だ。
 さっ、と、ゲートルードが手を天に掲げた。
 そして、
『――始め!』
 それを振り下ろすと同時に鋭く告げ、ぱっと後方へ退く。
 ふたりは瞬時に走り出した。
 クレイジー・ティーチャーは香介に向かって真直ぐに、香介はクレイジー・ティーチャーの背後に回り込むように。
「さて……どう攻めようか……?」
 クレイジー・ティーチャーが相手では、力比べは無謀でしかない。基本的な、デフォルトのパワーが違いすぎるのだ。
 だが、参加するからには勝つ。
 それが香介の――むしろ、参加者全員の――心構えだ。
 ただひとり、自分がムービーファンであることなどここでは何の関係もないし、彼をただの人間、ムービーファンのくせにと嘲る者もない。ここでの彼は、来栖香介という名のひとりの戦士であり、一個の凶器だった。
 力だけがものを言うこの獰悪な、貴い場において、それは当然にして絶対的な真理なのだ。
 それを香介は心地よく思う。
 なんとしても勝利を得るべく、脳裏に様々な思考、戦術及び戦略を展開しつつ、クレイジー・ティーチャーの動向をうかがっていた香介の目の前から、凶顔の理科教師の姿がふっと掻き消えた。
 香介が次の行動に移るより一瞬早く、声は唐突に背後からした。
「Heeeeeeeey,My Deaaaaaaar? 逃げないデヨ、寂しくなっちゃうじゃナイか。真正面からぶつかって来ようよ、ネエ? 先生、受け止めてあげるからサ」
 地の底から響くような、それでいて弾むような喜悦に満ちた言葉が完全に終わるより早く、そして大きなハンマーが後頭部を急襲するよりも早く、香介はぐっと脚に力を込めて前方に跳び、ハンマーが空を切るのを見計らって、コートに仕込んでおいた投げナイフを数本、クレイジー・ティーチャーに向けて投擲する。
 かなり真面目に訓練を積んだ香介の、『ヒトを殺すこと』に対する技術は大したもので、ナイフは弾丸のように宙を飛び、クレイジー・ティーチャーの肩や胸や腹にざくざくと――深々と突き刺さった。
 クレイジー・ティーチャーの身体にめり込んだナイフは五本、一般人ならそこでショック死していてもおかしくない数であり深さだったが、すでに生者としての自分を捨てている彼には大した問題ではない。痛みも動きにくさも不自由さもない。
「いやだナァ香介クン、この程度じゃあボクは倒せないヨ?」
 けらけらと笑ったクレイジー・ティーチャーが、香介の動体視力が捉え切れなかったほどの速度で突進し、ハンマーを無造作に一振りする。
 咄嗟に跳んで避けたつもりだったが避けきれず、ぶうんと鳴ったハンマーが香介のこめかみ付近をかすかに撫でた。がりっ、という嫌な衝撃があって、一瞬、目の前が白くなる。星が飛ぶ、というヤツだ。
 かすっただけでそれなのだ、真正面から食らったときのダメージなど想像したくもない。
「っつ……!」
 よろめきつつも何とか体勢を立て直し、仕切り直そうとした香介だったが、その横には、いつの間にか、音もなくクレイジー・ティーチャーが忍び寄っていた。ホラー映画の主役としての本分、といったところだろうか。
 香介がしまった、と思う暇もなく、
「ボクの存在は人を殺す為に在るようなものだからネェ。……丁度良かったヨ、そろそろ抑えるのが辛くて危なかったんだ」
 クレイジー・ティーチャーがにこやかに言い、固めた拳で、香介の腹部を強かに打ち据えた。
 めきり、という嫌な音は、内臓からだろうか骨からだろうか。
「……――ッ!?」
 規格外の怪力に、声もなく吹き飛んで、香介は固いリングに叩きつけられた。その際口の中を切ったらしく、血の味が広がる。
 しかし香介は、意志を折れさせることなくすぐに飛び起きる。
 拳が直撃した部分がじくじくと熱を持って痛んだが、そこで泣き喚き戦いを放棄するほど腰抜けでもない。
 否、むしろ。
「……Gloom,Twilight,Demise,Brimstone」
「え、何だッテ?」
 こぼれ落ちた言葉とメロディに、クレイジー・ティーチャーは首を傾げる。
 唐突過ぎるそれに驚いたといってもいい。
 もっとも、香介は細身だし、美麗な顔立ちこそしているものの、この程度で発狂するほどやわな人物ではないとクレイジー・ティーチャーは理解している。痛みのあまりおかしくなったわけではないと結論づける。
 ――香介は笑っていた。
 愉悦と歓喜に。
「You Get Lying Down in My Pain with Death, Desperation, Distress and Damnation」
 笑って、歌を口ずさんでいた。
 歌いながら、コートからいくつものナイフを引き抜き、正確無比にクレイジー・ティーチャーへと投擲する。そこに痛みの存在は感じられない。
 クレイジー・ティーチャーはヒュウと口笛を吹いてナイフを避けた。
 ただの人間、などといえば香介は気分を害するかもしれないが、生きた、血の通った人間が、ここまで強靭だなんて。彼の生の――死したる異様な生だとは言え――中では、稀有な事例だった。
「Darkness Snatch Me Away Like a Herald of Purgatory, Grim Reaper with His Sickle or an Angel of Judgment」
 ヒトの魂を揺さぶる、ただ『美しい』という言葉だけでは表現出来ない声が、美しく物哀しい、どこか狂気を秘めた歌詞とメロディを紡ぎ出す。
 クレイジー・ティーチャーは、それを恍惚と聴いた。
 そして今、この場にいられる自分の幸運を感謝する。
「Nothing's Eternal Nothing's Miracle There isn't the Eternal」
「……何て歌?」
「“The Lost Millenium”」
「へえ、いい歌だネ。狂気と絶望がたっぷり詰まってて」
 クレイジー・ティーチャーの言葉に、香介が笑った。
 驚くほど邪気のない顔で。
 そして同時に、コートから引き抜いたナイフを投擲する。
「アハハ、同じ手は何度も喰らわないヨ」
 明るい笑い声とともに、手にしたハンマーでナイフを叩き落したクレイジー・ティーチャーを、次の瞬間、大きな衝撃が襲った。
 香介が何かしかけてきたことは明白で、先刻のナイフは囮だったのだと納得する。後方に跳んで距離を取ろうとした彼の動きは、しかし、その身体に絡みつくワイヤーによって封じられていた。
 香介を見遣れば、手にはいつの間にか、拳銃のようなかたちをしたワイヤー射出装置が握られている。
 ワイヤーはクレイジー・ティーチャーの身体に突き刺さった数本のナイフに幾重にも絡みつき、規格外の怪力を誇る彼が解こうともがいても取れることがなかった。
「……オレの勝ちだ」
 淡々と告げた香介が、ワイヤー巻き取りのボタンを押す。
 それはよほど優秀な装置なのだろう、決して小柄ではないクレイジー・ティーチャーの身体は、まるで頼りない羽毛のように軽々と引き寄せられた。
 それならいっそ突っ込んでやれ、と跳躍したクレイジー・ティーチャーの身体が香介を弾き飛ばすよりも早く、香介がさっと避けると同時に腕を強く引くと、ワイヤーもまた強く引かれ、クレイジー・ティーチャーの身体にめり込んでいたナイフを引き抜きながら巻き取られる。
「うわお……!」
 その勢いでクレイジー・ティーチャーの身体はぽおんと宙を飛び、そして、ずしん、という鈍い音を立ててリングの外に落下する。
「あはは……負けちゃった。でも楽しかった、スッキリしたあ〜!!」
 クレイジー・ティーチャーは凶顔でもって晴れやかに笑うと、ひょいと跳躍してリングに戻った。
「ありがと、香介クン。楽しかったヨ」
「ああ、オレもだ」
「ボクに勝ったんだカラ、優勝してヨネ?」
「……当然だ」

 第一試合の勝者は来栖香介。
 第二試合はシュヴァルツ・ワールシュタットと八之銀二だ。



 4.銀の波

 第二試合はその十分後に開始された。
 ゲートルードが開始を告げると、シュヴァルツは静かに名乗りを上げた。
 肩口に小さな蜘蛛のような蟲が鎮座していたが、銀二がそれに気づいていたかどうかは定かではない。
「闇の繰り手、夜の蜘蛛、“遍く覆う者”シュヴァルツ・ワールシュタット。お手柔らかに頼む」
 銀二はかすかに微笑し、小さく頷いた。
「君とは初対面だったな。俺は八之銀二、元極道の一般人だ。丁寧な名乗りにこれでは格好がつかないが……まぁ、勘弁してくれ」
 それが済むとともに、双方わずかに身構え、互いを伺う。
 銀二は初対面のシュヴァルツの様子を観ようと考えてのことだが、シュヴァルツはそもそもカウンター攻撃を得意とする待ち伏せタイプなので、自分から仕掛けることは滅多にない。
 静かに見つめ合うこと数分、銀二がふ、と息を吐いた。
「君の身の内に、何か、計り知れないものを感じる」
「ああ……うん、あなたにも判るのか。銀幕市は本当に凄いな」
「闇雲に仕掛けるのは危険だろうが……このまま向かい合うだけでは、観客を退屈させてしまうかな」
「かもね。なら……どうする?」
「では、行こう。人間の底力と元極道の意地を見せよう」
「そっか」
 他愛ない世間話でもするかのように言った銀二が、目を細めて彼を見つめるシュヴァルツ目がけて駆け出す。
 たくましいという表現がぴったり来るような巨躯は、しかし驚くほど身軽で俊敏だ。たゆまざる鍛錬の結果と言うべきだろう。
「……へえ、速いな。極道って、皆そうなの?」
 シュヴァルツはまったく動じぬままにつぶやき、風すら巻き起こしながら突っ込んでくる銀二を冷静な眼で見つめた。そして、ゴオッ、と空気を切り裂きながら突き込まれた拳を、わずかに身体の位置をずらすことで避けると、今度は銀二の腕をさっと取り、先刻青鬼にしたように彼を投げ飛ばそうとした。
「うお、油断できんな、やはり」
 しかしそれは察せられてしまい、銀二はシュヴァルツの手を振り払って後方へ跳び退いた。
 そのまま、再度、銀二が動いた。
 今度の踏み込みは前回よりも早く、銀二の巨躯が、驚くほど滑らかに、流れるような……優雅ささえ伴った動きでシュヴァルツの懐へ入り込むのに要したのは、わずかに数秒に過ぎなかった。
 もっとも、それを読んでいたシュヴァルツは、銀二のたくましい腕が自分を捉えるよりも早く、軽い身のこなしで後方へ退いていたが。
 銀の眼に感嘆の色彩を載せてシュヴァルツが銀二を見遣る。
「すごい身体能力だ。銀二さんは普通の人間だよな?」
「無論だ」
「何をどう練習したら、そんな風に戦える?」
「……何回も繰り返すこと、か? いや、俺もよくは判らんが。必要に駆られて習得したにすぎないからなぁ。強いて言えば、周囲から学んだ、ということなのかもしれん」
「そうか……じゃあ、オレも銀二さんから学ぼう」
 つぶやき、シュヴァルツは身構える。
 待ち伏せ、反撃に特化した彼だが、たまには――そう、後学もかねて――自ら仕掛けてもいいかもしれない、と思ったのだ。それは彼に、新しい何かをもたらしてくれるかもしれない。
「じゃあ……オレも行くよ」
「ああ」
 穏やかですらある言葉とともにシュヴァルツが走り出すと、その一挙手一投足をも見逃さぬ、といった面持ちで銀二が彼を見つめる。
 シュヴァルツの両手に、きらきらと輝く光がまとわりついた。
 次の瞬間、それが、投網のようにしなって銀二へと殺到する。
 生き物のように滑らかな動きだった。それはまるで、獲物を捕らえるべく縦横に張り巡らされた蜘蛛の巣のようだったし、凶悪な顎(あぎと)でもって獲物に喰らいつかんとする肉食獣の用でもあった。
「うお……!」
 その、あまりの広範囲ぶりに、銀二は完全に避けることが出来なかった。
 きらきら光る、観るだけなら美しいとすらいえるそれに、上半身の半分くらいを覆われてしまう。
 がりり、という嫌な衝撃。
 そして、熱いものが自分の身体から流れ出す感覚。
「つ……ッ」
 咄嗟に腕や拳を使って、なんとか眼や首筋などの急所は庇ったが、肌の露出していた部分、腕や手や顔の一部を縦横に切り裂かれ、彼の身体は血を噴きこぼしていた。
「なるほど……それが君の能力か。こんなに凶悪なくせに、精緻で美しいな、それは。おまけにひどく正確だ。まさに、繰り手……」
 ぼたぼたと滴る血を、あふれるそれを無造作に拭いつつ、銀二は感嘆する。無論彼の全身からは、いまだ闘志がふつふつと湧き上がっている。
 シュヴァルツがかすかに笑った。
「ふーん、結構、完璧に捕えたつもりだったんだけどな、残念。銀二さんの身体能力の方が勝ってたってことか。でも、次は逃がさないよ……オレは狩り手だからね」
「怖いな、それは。だが、ならば受けて立つしかあるまい」
 楽しげに、きっぱりと告げられたそれに、シュヴァルツは背筋が粟立つのを感じた。
 恐怖ではない、緊張ではない、気後れでもない。
 これは歓喜だ。強い者と戦える歓喜、それを狩る喜び。
 妖物として生を受けた彼の根本が、つわものとの触れ合いに歓喜している。
「……こんなの、はじめてかも」
 創られた存在である自分が、自分の意志で、なんら強制されることなく日々を謳歌し、望んだ戦いに愉悦とともに身を置くことが出来る、シュヴァルツはそれを幸いと断ずる。
「なら」
 歌うようにシュヴァルツは告げる。
「オレも繰り手としての自身を全うするよ。せっかくだから」
 言った彼の両手が空気を撫でるような仕草をすると、きらきら輝く鋼の糸が、先刻に倍する規模でシュヴァルツの周囲に揺らめく。
 それはひどく美しかったが、同時にひどく凶悪で、その恐ろしさをすでに身を持って味わっている銀二は嘆息した。ただの人間である自分には荷が勝ちすぎるかもしれない、と思わなくもない。
 だが、やれることはやる。
 最善を尽くすことこそ礼儀だ。
「じゃあ……行くよ」
 言ったシュヴァルツが銀二を指し示すと、鋼の銀糸は一気に元極道の男目がけて殺到した。それは津波のようにも見えたし、急降下してくる猛禽の鉤爪のようにも見えた。
 何にせよ、ぼんやりその場に留まれば、あっという間に切り刻まれるだけだろう。
 銀二もまた勝負に出た。
 退くのではなく、逆に、シュヴァルツの懐目指して突っ込んだのだ。
 無論、目前には銀糸の怒涛、ただでは済まない。
「……へえ、そういう手で来るんだ」
 シュヴァルツが目を細めた。
 銀二は苦笑する。
「いい手じゃあ、ないさ。こんな方法しか、思いつかなくてな……!」
 顔や首筋を庇いながら、銀の津波に突っ込む。
 ざりざりっ、と、衣服に覆われた身体のあちこちが、鋭く無慈悲な鋼の糸に切り裂かれ、削られて行くのが判る。脚や肩、頬や額から、新たな血が噴き出したのも判る。
 判るが、止まる気はない。
「……ッ!」
 勢いを緩めることなく、銀二は突っ込んだ。
 シュヴァルツの元へと。
 シュヴァルツが背後に跳んで避けようとするよりも早く、渾身の力を込めて握った拳を、彼の腹へと叩き込む。
 がっ、と、確かな手応えがあった。
「う、わ……ッ」
 かなりの衝撃だったのだろう、後方へ吹っ飛んだシュヴァルツが、体勢を立て直しきれずによろめく。それと同時に鋼糸の津波はさっと晴れた。逃げるにしても、出したままでは不便だ。
 銀二はその瞬間を逃さず、深く息を吸い込むや否や更に一歩踏み込んで、シュヴァルツの胸倉を掴んだ。そして、先刻シュヴァルツがそうしようとしたように、もう片方の手で彼の腕を掴み、思い切りその足を払って、全体重をかけて投げ飛ばす。
 そもそも決して大柄ではないシュヴァルツは、銀二の巨体から繰り出されるその投げ技をもろに喰らって軽々と吹っ飛ぶ。
 吹っ飛んだ先は――リングの外だ。
「……やられちゃったな」
 ずしん、という鈍い音とともに墜落し、背中から轟沈しつつ、シュヴァルツはつぶやいた。それほど残念そうではないのは、きっと、彼が、今のこの場でいくつかの新しいことを学べたからだ。
「すまん、大丈夫か。君がそんなに軽いとは思わなくて、つい力を入れすぎた」
 慌てたようにリング上から顔を覗かせた銀二がシュヴァルツに手を差し出し、その身体を引っ張り上げる。
「ああ、うん、平気。むしろ銀二さんの方が大丈夫? って感じ。血まみれだよ」
「ま、このくらいはな。ともあれ楽しかった、いい経験になったよ、ありがとう」
「それはオレもだな。また機会があれば、いつか」
「ああ」
「優勝してよね、せっかくだから」
「そうだな」

 第二試合の勝者は八之銀二。
 第三試合は、ルイス・キリングとトト・エドラグラだ。



 5.剣とロザリオ

 第三試合はそこから五分後に開始された。
 血気にはやるふたりが、待ちきれずにリングへ飛び出してきたので、ほんの少し早められたのだ。
 始め、の合図とともに、双方、礼儀に則って名乗りを上げる。
「清廉にして勇猛なる君、白き御花(みはな)の王が剣(つるぎ)、“金獅将”トト・エドラグラ、参る。いざ尋常に勝負!」
 百五十cmはあろうかという巨剣を水平に掲げ、朗々と告げられたそれに、ルイスは破顔した。
 同じく、『教会』製の剣を高々と掲げ、名乗る。
「『教会』所属の『銀のロザリオ』、吸血鬼ハンターのルイス・キリング。血に惑う憐れなる者に魂の救済を。……行くぜ!」
 それが終わると同時に、双方、勢いよく地を蹴った。
 疾風のごとき速さで突っ込み、剣を揮う。
 ぎらり、と白刃がきらめき、
 ぎゃぎっ!
 甲高い、耳障りな音を立てて刃が鳴いた。
 ぎちぎちと軋む剣を互いに全力で押しつつ、トトとルイスは微笑を向け合う。
「すげぇ力だな」
「あんたもな。こりゃあ楽しめそうだ……同士といえども負けねぇぜ?」
「オレだって。せっかくだから楽しまねぇとな」
「おうよ……ルイス・キリング様の妙技、篤と見るがいいさ!」
 ふたりは『封印の城』が姿を現した際、某所にて熱い雄叫びを上げ、酒を酌み交わしあった仲だ。気心も知れているし、実力も知っている。
 ――だからこそ、滾(たぎ)る。
 腹の奥で、ふつふつと湧き上がる戦意、圧倒的な喜悦を伴ったそれを、互いに感じている。
「んじゃ……始めようぜ!」
 がぢっ、という金属音とともに、双方背後へと飛び退き、同時に地を蹴って突っ込む。
 剣の切っ先が空気を裂いた。
 刃と刃が打ち合わされる。
 ぢぃん、ぎんっ、と剣が鳴き、
「はははッ!」
 トトが朗らかな笑い声を上げた。
 弾いているのか弾かれているのか、揮った剣はまるで吸い込まれるようにルイスの得物へと向かう。白々と輝く彼の剣は、決して豪奢なつくりではなかったが、どこか神々しく美しかった。
 ――あの方を思い出す。
 トトが命と魂を捧げて仕えたあの少年王を。
「……悪く、ねぇ」
 つぶやき、剣を叩きつける。
 剣と剣が交差すると同時に、にやりと笑ったルイスが空いた左手を閃かせた。ひやり、と背筋を走る感覚、野生、野性の勘とでも言うべきそれに衝き動かされ、トトは瞬時に身をかがめた。
 瞬間、今まで彼の身体があった場所を、鋭いナイフが行き過ぎる。
 カツンッ、と音を立ててリングを転がるのを背後に感じつつ、トトが更なる斬撃を繰り出すと、ルイスはいたずらっぽく笑って軽く肩をすくめた。
「っと、勘付かれたか」
「あっぶねぇえ……! ったく、物騒なもん持ってんな、あんた」
「吸血鬼ハンターとしちゃ凡庸な武器さ」
「なるほどね」
 言うや、更に踏み込んで一撃二撃。
 ばぢっ、がぢっ、と、鈍い金属音が響き、銀の光が舞い踊る。
 トトが踏み込み、上段から剣を振り下ろせば、水平にした剣でそれを受けたルイスが、力を巧く殺して刃を流し、空いた片手を硬く握ると、トトの硬い腹へと突き込んだ。
「っぐ……」
 確かに、かなりの衝撃ではあったのだろう、トトは眉根を寄せて息を詰めたが、まったく怯まず、よろめくこともなく、むしろ一歩踏み出してルイスに強烈な頭突きをお見舞いした。
 鈍い打擲音。
「ぐっ……がっ!」
 ケモノの肉体の硬さに、さすがのルイスも呻いた。
 整った顔が歪む。
「くっそ……痛ぇじゃねぇかよっ」
 吼えたルイスが下段から剣を刎ね上げれば、
「そりゃこっちの台詞だっつーの!」
 紙一重で避けたトトが、薙ぎ斬らんばかりの勢いでルイスの足を払う。
 百獣の王の放つ技に相応しい、颶風のごときそれに足を引っかけられ、ルイスは派手に吹っ飛んだ。さすがにリングに叩きつけられるような無様はせず、即座に体勢を整えて着地したが、相当効いたらしく顔を歪めている。
「いつつ……ちぎれるかと思ったぞ、ちくしょう。俺様のカモシカのような美脚がぽっきり折れて落っこちたらどーしてくれんだっ」
「そのときは焚き火でよく炙(あぶ)って夕飯にいただくよ。ルイスの足なら食いでがありそうだ」
「……あんまり美味くねぇと思うぞ」
「ごめん、実はオレもそう思った」
「失礼な、もし頬が落ちるほど美味かったらどーすんだ」
 距離を取りつつも飄々と軽口を交わし合い、見つめ合ったあと、青と緑の鮮やかな眼が笑みのかたちに細められる。
「くくっ」
「ははっ」
 こぼれた笑い声は、どこまでも楽しげで、明るい。
「いいね……悪くねぇ。こんな戦いも、ほんとに、悪くねぇ」
「同感だ。命を削って殺し合うばかりが戦いじゃないんだな。だが、やるからにはオレが勝つぜ」
「言うね、あんたのそういうとこ、好きだけど。でも、オレだって負けたかねぇや、帰ったとき、王に胸張って勝ちましたって言いてぇしな」
「オレも、無様に負けると、みっともねぇっ! て相棒にどつかれるんでね。精々気張るさ」
 その言葉とともにルイスが走り出す。
 トトもそれに倣(なら)った。
 巻き起こる熱波は闘志のゆえだろうか。
「はあぁッ!」
「おおお……っ!」
 咆哮、白刃一閃、そして甲高い金属音。
 がっきり組み合ったあと、互いを弾き飛ばすようにして後方に跳び、再度突っ込んで刃を合わせる。
 熱気と戦意に満ちたリング上を、白銀の光が舞い踊り、熱い風が渦巻く。
 上段から斬り下ろされたルイスの剣が、トトの頬を浅く切り裂いたのと、横一文字に払われたトトの剣が、ルイスの引き締まった腹部を浅く薙いだのはほぼ同時のことだった。
 さっと背後に跳んで距離を取り、うっすらと血を滲ませる腹部へ手をやって、ルイスは感嘆の声を漏らす。
「うお、危ねーっ。あと一cm近かったらはみ出てたな、中身」
「残念、もーちょい踏み込むべきだったか……咄嗟に避けられたな。吸血鬼ハンターってのはすげぇヤツらなんだなぁ」
「獣人てのもな。いやぁ、しっかし、ホント楽しいわ。癖になりそうだ。だが……次の試合が控えてる、そろそろフィニッシュ目指さねぇとな。勝負かけるぜ……覚悟しろよ」
「ははっ、おっかねぇこと言ってくれんじゃん。楽しみだ。なら、オレも最大級の敬意を持って迎え撃つよ」
 晴れやかな、満ち足りた笑顔を互いに浮かべながら、これを最後の一撃にせんと、戦士たちが剣を振りかぶる。
 地を蹴ったのはほぼ同時。
「おおおおおおおッ!!」
「らああああああっ!!」
 咆哮のごとき、裂帛の気合いとともに、剣と剣が打ち合わされる。
 力は互角、速度も互角、技量も互角。屠った敵の数、潜り抜けてきた修羅場、重ねてきた経験、そのどれもが互いに何の遜色もない。
 撃ち込み、受けて流し、斬り払ったのち叩きつけ、身を退くと同時に返す刃で突き入れ、跳んで避けると同時に軽やかなステップで突っ込み、刎ね上げる。鋭い切っ先にあちこちを裂かれ、双方の身体から赤い花が散った。
 それはひどく美しかった。
 十合、二十合、三十合と、武骨でありながら優雅でもある舞を思わせる滑らかさで撃ち合いながら、互いに互いの隙を伺う。ここまで互角だと、隙をつくしか、勝つ方法はないのだ。
 そしてそれは、百合目で訪れた。
「うおお……ッ!」
 巨剣を振りかぶったトトが、ルイスの剣を破壊せんばかりの勢いで上段からそれを振り下ろした、それがわずかな隙になった。彼の剣はあまりに大きく、攻撃後に空白が生まれてしまうのだ。
「……!」
 ルイスはそれを見逃さず、振り下ろされた巨剣を神技のごとき巧みさで避けるや、トトの手元、剣の柄と鍔の真ん中辺りを狙い、渾身の力を込めて自分の剣を刎ね上げた。
「う、お……っ」
 がちぃん、という音がして、強かに打ち据えられた剣が、トトの手から跳ね跳ぶ。
「ちっ」
 無論生粋の戦士たるトトがそれで戦意を喪失するはずもなく、巨剣が地面を転がると同時に素手での反撃を試みた彼だったが、それを完全に読んでいたルイスは、瞬時にトトの背後に回りこみ、彼の首筋に剣を押し付けていた。
 トトの動きが止まる。
 ややあって、
「……ちぇ」
 悔しげな、しかし満足げな声が漏れた。
「オレの負けか、残念」
「悪ぃな、今度マタタビやるからさ」
「しょうがねぇ、それで我慢するか。あ、もちろんネコマタ印のマタタビじゃねぇと駄目だからな!」
 晴れやかに、盛大に笑い合ったあと、どちらともなく手を差し出し、強く握る。
「……楽しかったわ。ありがとな、トト」
「おうよ、オレもだ。またやりてぇな」
「まったくだ」
「次も勝てよ、ルイス」
「もちろん、狙うは優勝のみだぜ」

 第三試合の勝者はルイス・キリング。
 第四試合は理月とシンだ。



 6.白刃一閃、その先に

 第四試合はそこから十五分後に開始された。
 向かい合ったふたりは、ひどく似通った雰囲気を持っていた。
「あんたと再戦出来て嬉しいぜ、シン」
「ああ……私もだ」
 ふたりが穏やかに笑みを交わすと、審判のゲートルードが戦いの始まりを告げた。
「さあ、始めようぜ」
「異存はない」
 双方が同時に腰の得物を引き抜くと、まぶしい白銀の光が、漆黒のリングの上で輝いた。それは清冽ですらあった。
「白凌団が一刃、“黒暁”理月、推して参るッ!」
 高らかに、猛々しく名乗り、理月はシン目がけて突っ込む。
 煌々と輝く白銀の目には、戦いへの昂揚と、それで我を見失わないだけの理知、怜悧な光が揺れている。
「銀角族が一鬼、“真白き残影”シン、お相手いたす!」
 同じく名乗りを返したシンが、引き抜いた剣を手に理月へ突進する。
 白刃が黒いリングの上にきらめいた。
 ぢいぃぃんっ!
 質のよい鋼同士が撃ち合わされる、甲高く澄んだ音が響き渡る。
 即座に『白竜王』を返し、下段から掬い上げるように揮うが、モーションが大きすぎたかそれはあっさり避けられてしまった。
 もっともそれは予想の範囲内のことで、手首を閃かせて横一文字に刀を薙ぎ払うと、シンは刃を立てた剣でその一撃を受け、更に鍔の部分を使って理月の刀を強く弾いた。
 追撃を避け、後方へ距離を取る。
「……くそ、たまんねぇ」
 ぺろり、と唇を舐め、理月はつぶやいた。
 手元から伝わる心地よい痺れが、理月の戦意をますます高めてゆく。
 ぞくぞくと背筋を這い上がるそれ、身体を震わせるその感覚を興奮と呼ぶのだと理解している。
「次々、行くぜ!」
 轟と吼えた理月が、勢いよく踏み込んで『白竜王』を撃ち込むと、シンはそれをがっきと受け止めて、そのまま素早くぱっ、と離れ、その後鋭い呼気とともに切っ先を突き入れて来る。
 目にも留まらぬ、と表現するのが相応しいだろう一撃を、わずかに上体を捻ってかわしたが、かわしきれなかったらしく右頬を熱が走った。
 もっとも、そうでなくば顔の真ん中に刃を突き入れられていたことだろう。
 それほどの速さだった。
「……避けるか、我が刃を」
 低く、感嘆を込めてシンが言う。
 声は静かだったが、黄金の双眸は抑え難い興奮に濡れている。
 ――彼もまた、この戦いに激しい喜悦を感じているのだ。
 理月は獰猛に笑った。
 鋭く光る剣を振りかぶり、シンが斬りかかって来る。
 死そのものの斬撃。
 一条の。
「ははっ、いいね! そうだ、もっと楽しませてくれよ……!」
 これ以上頼れる相棒はない、と言い切れるほどよく手に馴染んだ『白竜王』でそれを受け、力を殺しながら流してそらし、ほとばしる歓喜、狂悦と呼んで問題ないだろう感情を隠しもせずに理月は吼える。
 死を身近に感じるとき、ようやく彼は、自身の抱える孤独や絶望をすべて彼方に追いやって、ただ純粋にその一瞬を楽しむことが出来る。
 難しい言葉も、ごちゃごちゃした思考も要らない、本能同士のぶつかり合い、命をかけたその中にこそ、彼は生を見出すことが出来る。
 解消されることのない矛盾を理解しつつも。
「“黒暁”、理月。……忘れ難き名となりそうだ」
 囁くようなシンの言葉に、鋭く整った理月の顔が邪気のない笑みをかたちづくる。
 理月にとってそれは最高級の褒め言葉だった。
 救いと呼んで差し支えないほどの。
「嬉しいね……ヒトの記憶の中に残れるのは」
 誰かの中に残る限り、それは完全なる死ではないのだと、最近、思うようになった。
 無論、さすがにここを死に場所に、と思っているわけではないが。
「さあ……どう攻めよう。どう楽しもう」
 今、彼の胸を満たすのはただそれだけだった。
 他の難しいことはどこかに消え失せていた。
 己が視界が、シンが剣を構え直すのを認めると同時に、ほぼ条件反射のように理月は地面を蹴っていた。ほとんど無意識だった。
「ふ……ッ」
 鋭い呼気とともに、『白竜王』を一閃する。
 シンもまた同じ斬撃でもって応えた。
 ぎゃぎっ、がっ、ばぢっ!
 刃と刃がこすりあわされる、甲高く耳障りな音がする。
 手の感覚は、シンが、全力で押してきていることを伝えた。
 ――彼が、ほとんど、理月を殺すつもりでいることを。
 それなのに、かみ合った視線はどこまでも穏やかで、理知的で、楽しげだ。それは、百年来の親友に向けるかのごとき眼だ。
 けれど、理月もまた同じような思いを抱いていたから、――抱きながらも、殺してでも勝ってやろうと、そのくらい楽しんでやろうと思っていたから、シンの眼差しの静かさと、手つきの鋭さとの差異に戸惑うことはなかった。
「……同じ気持ちでやりあえるなんざ、幸せなことじゃねぇか」
 渾身の力を込めて剣を弾くと、理月が追撃に移るよりも早く手首を返したシンが、彼の顔面を狙って剣を突き込んで来る。
 間一髪で避けたが避けきれず、黒檀のような、と他者に称される肌の一部、先刻傷を受けた右頬の上から更に、決して浅くない傷が刻まれた。熱を伴った痛みが弾け、噴き出した熱い液体が、頬を伝って勢いよく流れ落ちるのが判る。
 肌は黒くとも、血の赤さ、その鮮やかさになんの違いもない。
 シンの剣は鋭く、そして容赦も躊躇もなかった。彼は確かに手練れで、猛者だった。
 ほんの一瞬の気の緩みが、理月に死をもたらすことになるだろう。
 だが、理月の口からこぼれたのは、
「は……はははっ!」
 堪えきれない、と言わんばかりの笑い声だった。
 こんなに心の底から笑ったのは久しぶりだ、とすら思う。
 身の内に巣食う虚無をも、笑い飛ばせそうなほどの。
「……行くぜ」
「参られよ」
 簡潔に告げ、また、走り出す。
 風を切る頬からは、まだわずかに出血していたが、頓着する気はなかった。
 互いに様子を伺いながら、戯れるように刃を合わせる。
 白銀の刀と剣は、まるで百年別たれた恋人同士のように、離れ難くかみ合い、何度も何度も高らかに打ち合わされた。
 ――理月は心底満ち足りていた。
 こうまで自分が戦いを求めていたのだと、死を身近に感じたがっていたのだと、今更のように思うと同時に、この充足と愉悦に満ちた時間が、永遠に続けばいいとも思う。
 だが。
「やるからには、勝たねぇとな」
 次の試合が控えている、と、先の試合でも口にした者がいたように、結果は必要だ。
 リング上を縦横に駆け回り、舞うかのごとくに刀を揮い、合わせつつ、理月は銀の目を細めた。同じくこちらを、肉食獣のような――それでいて穏やかな――金目で見つめているシンの様子を伺い、自分の取るべき道をほんのわずかな時間で算段する。
(一瞬で、決める)
 彼の揮う刀は殺戮のための力だ。
 倒すべき相手を『破壊する』と認識したとき、初めてその力は発露する。
「……“黒暁”が閃刃、篤と見ろ」
 この至高の時間に、それを与えてくれた好敵手に、最大の力を持って報いる、それが理月の流儀だ。たとえ、最後に待つ結果が死であろうとも。
 理月は『白竜王』を握り直し、百メートルを五秒以下で走破する脚力で、シンに向かって殺到する。
 シンが腰に剣を戻し、居合抜きの構えを取った。
 理月の唇に笑みが浮かぶ。
 勝つか負けるか、生きるか死ぬか。そのどちらかだ。
 その簡潔さが心地よい。
「う、お、おおおおおおッ!!」
 裂帛の気合いが交錯する。
 ――――勝負は、まさに一瞬。
 だが、恐らく、固唾を飲んで見守っていた観客たちに、それはまるでスローモーションのように見えたことだろう。
 それほど、流れるように美しい、一連の動作だった。
 理月がシンの懐に入り込むより早く、鋭い呼気とともに鞘から抜き放たれた銀の剣が、理月の胴を一薙ぎせんと飛来したが、理月はそれを、わずかに踏みとどまることで避けた。
「……!」
 ヒュッ、と、剣が空を斬る。
 シンが息を呑む音が聞こえた。
 ゼロコンマ数秒の差でそれを回避し、シンの剣が完全に振りぬかれたのを確認するよりも早く、シンの懐へ飛び込むと、すれ違いざまに『白竜王』を下段から勢いよく刎ね上げた。
 ざくり、という確かな手応え。
「ぐ……ッ」
 瞬時にシンから離れた理月が背後を振り向き、身構えると、カラン、という金属音がして、シンが剣を取り落とすのが見えた。そしてその身体がよろめき、やがてゆっくりと倒れる。
 わあっ、と、歓声が上がった。
「……俺の勝ちか」
 漆黒のリングに、じわりと血が広がる。
 無論、殺すつもりで揮った刀だ、躊躇も容赦も手加減もしていない。それは当然の結果だったし、そうでなくば自分が死んでいただけのことだ。
 ゲートルードが己が勝利を告げる中、理月はシンに歩み寄り、彼の身体を抱き起こした。
 傷は右脇腹から左胸へ、斜め一文字。
 まだ息はある。
 本気の一撃を喰らって、それでも息があることが、シンの優秀さと頑強さを雄弁に物語っていると言えるだろう。
 顔色こそ悪かったが、シンの表情は晴れやかだ。
 理月は笑って礼を言った。
「……ありがとな、楽しかった」
「私もだ。機会があれば、また。――武運を」
「ああ」
 駆けつけた救護班が、シンの身体を担架に横たえ、運んでゆく。
 どうするのかと問えば、魔王陛下が完璧に癒してくださるとのことだった。
 案外暢気に手を振るシンに、苦笑とともに手を振り返し、理月は『白竜王』を腰に戻した。

 第四試合の勝者は理月。
 第五試合は玄彦と来栖香介だ。



 7.戦場に歌を請う

 第五試合が始まったのはそこから二十分後だった。
 血に汚れたリングを清めるのに少し時間がかかったのだ。
「剛魔が一体、玄彦。お相手願う」
「来栖香介だ、ま、よろしく頼むわ」
 二メートルを超える長身に、隆々たる体躯を持った剛魔の玄彦と並ぶと、香介の細さは強調されて見えたが、玄彦には香介を侮るつもりも、油断するつもりもない様子だった。
 その証拠に、始め、の合図とともに、香介の出方を伺いながらじりじりと移動する。
「何だよ、そんなに警戒すんなって」
 からかうように香介が言うと、
「先の戦いを目にして警戒するなと言う方が無茶だろう」
 苦笑とともにそんな言葉が返った。
「我らは常に戦いとともにある。そういう世界に我らは生きている。だが、その我らと何ら遜色なく戦うお主はなにものだ? 何をもって、そこまで磨き上げられた?」
「――……さあ、な」
 玄彦の疑問に、香介は肩をすくめる。
 簡単に答えてやれることでもないし、口にするつもりもない。
 答えの代わりとばかりに、香介は、黒いコートから数本のナイフを引き抜いた。ぎらり、と光を反射するそれに、玄彦が目を細める。
「そんなに知りたきゃ、身をもって体験してくれりゃいい」
「……そうか、そうだな」
 それが合図だった。
 ゴッ、という鈍い打擲音は、玄彦がリングを蹴ったためのものだ。
 突進してくる巨体に向かって香介はナイフを放ったが、それらは、玄彦が分厚い掌を一振りするだけで、颶風に吹き散らかされる木の葉のごとくに散り散りになり、乾いた音を立てて地面に落ちた。
「なんつー体機能だ。ありえねぇ」
 呆れた声を漏らしつつも、香介の眼から力が失われることはない。
 戦闘狂を自認する彼にとって、強者との血肉を持った触れ合いは歓喜の一言に尽きる。肉体のレベルが違うからと怯え、戦意を喪失して、この稀有な機会を見逃すような勿体のない真似をする気はない。
 無論クレイジー・ティーチャーとやりあったときの傷は癒えてはおらず、骨が折れるか内臓に傷がつくかした腹はまだじくじくと痛んだままだ。熱を持って疼くそれは、恐らく、長く放置しておいていいものではない。
 だが。
「……The Pain Makes Me Strong」
 歌うようにつぶやき、香介は身構えた。
 身を蝕む痛みは、むしろ彼に強い力を与える。
 痛みによって、彼の闘志は萌芽するのだ。
 弾丸のごとき勢いで突っ込んできた玄彦の拳が、当たればただでは済まないような音を立てて香介を襲う。それは一体どれほどのエネルギーを孕んでいるのか、拳が行き過ぎると同時にゴウッ、と風が渦巻き、香介の頬をやわらかく撫でた。
「っと……!」
 単に跳ぶより距離が稼げる、と、数回のトンボ返りで後方に退き、体勢を整える。ばさり、と翻った黒いコートは、まるで翼のようだった。
 構えを解かぬままに玄彦と対峙していると、
「それも、先ほどの歌か?」
 唐突に、玄彦が言ったので、香介は思わず首を傾げた。
「あん?」
「先の戦いで、歌っておったろう」
「……ああ。今のは違ぇよ、歌じゃねぇ」
「そうか。もっと聞いてみたいと、思うたのだが」
「ふぅん? 別に、いいけど、『向こう』から帰って来られなくなっても知らねぇぜ?」
「『向こう』とは彼岸か。輪廻の先か、それとも虚無か」
「さあ、どうかな。そのどれもかも」
「ふむ……悪くない」
 玄彦がごつい造作の顔を無邪気なほど晴れやかな笑みのかたちにした。
 あまりに邪気のない表情に、香介までつられて笑ったほどだ。
「わしが勝ったら、歌ってくれ」
「いいぜ、あんたが『なくなる』くらいのを、聞かせてやる」
「それは楽しみだ、勝たねばならぬ理由が出来た!」
 轟と咆哮した玄彦が、漆黒の双眸に確かな喜悦を輝かせて突っ込んでくる。
 その速さ、助走なしで時速八十キロ強。
 たちの悪いつむじ風のようだ。
 武器のあるなしに関わらず、当たるだけで致命傷になるだろう。
「すっげ……やべぇ、ゾクゾクする!」
 無論香介とてそれで怖気づきはしない。
 正面からまともにぶつかり合う愚を理解こそすれ、戦意を萎えさせるには至らない。むしろその激しさは、香介の魂の奥底にくすぶる暗い昏い願望を満たし、彼のすべてを歓喜させるだけだ。
「ぅおッ、と!」
 漆黒の剛魔の突撃を紙一重で避け、渦巻く颶風に髪を掻き乱されながら、広くたくましい背中に向かってナイフを放つ。陽光にきらめくナイフは、凶悪でありながら静謐に美しかった。
 鋭く、真直ぐに飛んだそれは、モーションの大きさゆえに体勢を整えきれずにいた玄彦の背にざくりと突き刺さった。
 数は全部で三本、肩甲骨の下辺りと背骨を少しそれた背中の真ん中辺り、そして脇腹付近だ。重要な臓器のある位置ではなかったが――とはいえ、普通の人間ならそれだけで身動きも出来なくなるはずだ――、痛いことは痛いらしく、素早く向き直った玄彦がぐぅっと唸った。もっとも、表情自体はひどく楽しげだ。
「むむ……痛いぞ。ずいぶん勢いよく刺してくれたな」
「なんか、あんたの声聞いてっと全然そうは感じられねぇんだけど。普通ナイフ三本刺さったらもーちょっと別のリアクションするだろ」
「この程度で死ねるほど剛魔はやわではないのでな。無論痛みや苦しみはおぬしら人間と同じく感じるのだ、殺るのなら一息に頼むぞ」
「どの程度なら死ねるのか、いっぺんみっちり議論してみてぇ気がする」
「我ら剛魔を一撃で降すことが出来るのは紅蓮公くらいのものよ」
「あー、納得。頼むからオレにそれを期待すんな」
「それは残念だ。……だが、今の手つきからして相当修練を積んだだろう」
「ん、まぁな」
「空恐ろしいな、人間は」
「褒め言葉と受け取っておくさ」
「無論だ」
 その言葉を合図に再度向かい合う。
 玄彦の楽しげな眼と視線を絡ませながら、香介は冷静に戦況を分析していた。
 真っ向からの力勝負は不可能だ。
 多分、組み合った瞬間へし折られる。
 ならばどうするか。
 閃きは一瞬のことだった。
「――よし、決めた」
 狙うはモーションの大きさ、それゆえの背後の隙だ。
「行くぜ」
「おう、お相手しよう」
 告げると同時に、双方突進。
 玄彦の拳が恐ろしい唸りを上げながら香介を襲う。
 拳の周囲の空気がぶれてすら見えるそれは、当たればまず間違いなく死ぬだろう、どころか、身体が引き千切れて肉塊になること間違いなしの凶悪さで香介に迫ったが、
「っは、おっかねぇなッ!」
 喜色満面、叫んだ香介は、その一撃を素早く屈み込んで避け、リングを転がるようにして玄彦の背後に回り込んだ。
 そして、玄彦が完全に体勢を整えるよりも早く、彼の背中に刺さったナイフを掴んで勢いよく跳び上がり、締め上げんばかりの強さで玄彦の首に腕を回すと、渾身の力を込めてその身体を引き倒す。
「うぉ……ッ!?」
 体重で言うなら香介の二倍はありそうな、頑健で硬質的な巨躯は、しかし体勢が整いきっていなかったこともあって、細身に似合わぬ怪力を持つ香介の腕の中、ぐらりと傾(かし)ぐ。
「ぅしッ!」
 低い呼気とともに更に力を込めると、ついにその巨体は鈍い音を立ててリングに沈んだ。玄彦が飛び起きるよりも早く、香介は彼の身体に馬乗りになり、その猪首にナイフを突きつけた。
「動けば、刺さるぜ」
 むしろ刺す、という意志を込めて言うと、ほんの少し身を起こしかけていた玄彦は、苦笑とともに手を上げた。
「……参った、わしの負けだ」
 宣言に、ゲートルードが香介の勝利を告げる。
 香介はひとつ息を吐くとナイフを仕舞い、玄彦の身体から退いた。
 ゆっくりと身体を起こした玄彦が、突き刺さったままだったナイフを不便そうに引き抜きながら嘆息する。
「……おぬしの歌を聴きそびれた」
「別に、いつでも聴かせてやるよ。あんたには楽しませてもらったから」
「それはありがたい。そうだな、では、いずれ」
「ああ」
「おぬしの勝利を祈っておるぞ」
「当然。期待しろよ」

 第五試合の勝者は来栖香介。
 第六試合はブラックウッドと理月だ。



 8.魔性の男、本領発揮中

 第六試合はそこから十分後に始まった。
 最後まで待たされたかたちのブラックウッドだが、それほど退屈していたようには見えない。他の試合もまた、彼には興味深いものだったのだろう。
 ゲートルードが開始を告げると、理月は『白竜王』を抜かぬままブラックウッドと対峙した。
 並ぶ者なき神や魔王でもなし、凄腕ではあれ一介の傭兵に過ぎない彼が、武器を抜く必要がないほど容易いなどと思っているはずもなく、むしろ正直なところ、ブラックウッドに対して、参加者の中で一番警戒が必要な相手だという認識を抱いてはいるのだが、
「……なんかなぁ、どうも調子が狂うんだよな」
 なかなか、刀を揮って斬りかかろうという意識とは結びつかないのだ。
 それは恐らく、ブラックウッドが、参加者の中でただひとり、正装に近いスーツをまとっていたこともあるだろうし、どこまでも穏やかな、泰然とした雰囲気の所為もあるだろう。
 理知的で優雅な物腰は、こんな獰悪な場より、小洒落たカフェや夜の社交界にこそ相応しいように思える。
 ブラックウッドもまたそのことを自分自身で理解していて、戸惑ってすらいる理月に、艶然とした笑みを向けた。
「ふふふ、済まないね、確かに君の目には奇異に映るかもしれないが、これが私の武装なのだよ。もちろん、油断はお薦めしない」
 言われて理月が肩をすくめる。
「最初からする気もねぇよ、んなおっかねぇこと。慢心は死を招く行為だ」
「そうだね、違いない。それを聞くだけで、君の優秀さが判るというものだよ、理月君」
「そりゃ、どうも。まぁいい、棒切れみてぇに突っ立ってたって仕方ねぇし、能がねぇ。――やろうぜ」
 困惑を振り払い、銀の眼に闘志を燃え立たせる理月に、ブラックウッドがクスリと笑った。
「……では、一緒に踊って頂けるのだね?」
「ああ……あんたみてぇに優雅に、とは行かねぇけどな」
「楽しみだ」
 双方にきりりとした戦意が漲(みなぎ)る。
 最初に動いたのは理月だった。
 刀は抜かぬまま、ブラックウッド目がけて走り出す。
 もちろん彼は傭兵だ、たとえ素手でもヒトの命を容易く終わらせることが出来る。武器を手にしていないから油断していい相手ではないということを、聡明なブラックウッドは理解しているだろう。
 ――少し前に地獄で行われた忘年会の、コロッセウムでの戦いを彼はよく覚えている。
 あの時は相手が女性だったということもあって――何せフェミニストといえばブラックウッド、という方程式が成り立つほど女性には甘い彼だ――、ほとんど手の内をさらすことなく敗北したブラックウッドだが、本来の彼は狩人の面目躍如とでも言うべき接近戦のプロだ。近づく『獲物』を捕え、思うままに蹂躙する技に長けている、という印象がある。
 それなのに、闇雲に仕掛ける愚を、理月があえて犯したのは、自分にはそれが真似できないことをよく理解しているからだ。『待ち伏せて狩る』ことは、斬り込み要員たる理月には出来ないし、するつもりもない。
 理月にとって勝利とは……命とは、自ら飛び込んで行って刈り取るものなのだ。待って得るものではない。
 無論、それが多大な危険をはらむことをも、きちんと認識しているが。
「ふふふ……さすが、と、いうところかな。なんと隙のない足運びだろうね、これは、なかなか骨が折れそうだ」
 骨が折れそうだと言いつつも楽しげに、ブラックウッドは肉薄する理月を理知的な眼で見つめていた。否、それは理知的と呼ぶよりは、狩る者の冷徹な観察眼と言うべきかもしれない。
「さて……」
 小さなつぶやきとともに、きつく握り締められた理月の拳がブラックウッドを襲う。ヒュッ、と空気を裂くそれは、当たれば、『痛い』だけでは済まない凶悪さを伴っていた。
「おお、怖いね」
 しかし、避けに特化した動体視力の持ち主たるブラックウッドは、さしたる苦労もなく身を捻ってその拳をかわした。即座に襲い来る反対の拳を更に避け、逆に腕をつかもうとしたものの、
「おっと」
 華麗にトンボ返りをした理月が、後方へ向けて回転しながら長い脚で蹴撃を加えてきたので、頑丈なブーツに手を弾かれてしまい、果たせなかった。
「怖いな、近づいたら絡め取られそうだ」
 怖いと言いつつ、理月は笑っている。
 まぶしい、美しい銀の目には、抑え難い戦意と愉悦が揺れている。
「そう恐れることはないよ。来たまえ、ダンスを教えてあげよう」
「は、悪くねぇ!」
 笑った理月が、野生の獣のようにしなやかな身体を躍動させ、ブラックウッドへ向かう。それは速く、そして力強かった。
 再度握り締められた拳が、ブラックウッドの身体を薙ぐよりもいくらか早く、ブラックウッドは目を細めるとともに、右手を理月目がけて滑らせた。
 しゅっ、と、空気のこすれる音がする。
「ッ、と……!」
 それを察して、理月が咄嗟に後方へ跳んだ。
 が、少し遅かったらしく、先刻灰鬼シンとの戦いで刻まれた傷の上に、新たな一文字が描かれ、頬が新しい血をあふれさせる。
 くすり、と、ブラックウッドが笑んだ。
 頬を拭いもせず、理月は肩をすくめる。
「……吸血鬼ってのぁおっかねぇな、そういう『武器』があるんだから」
 理月の視線の先には、鋭く伸びたブラックウッドの爪がある。ケモノを彷彿とさせる鋭い鉤爪だ。
 理月の言葉に、ブラックウッドは微笑んだ。
 どこか妖しく、黒い笑みだった。
「済まないね、血を見るのは嫌いではないのだよ」
「……肝に銘じるさ」
 言って、理月は再度ブラックウッドへ打ちかかる。
 ブラックウッドは微笑をもって彼を迎えた。
 並の相手ならば瞬時に再起不能にされそうな、鋭く重い拳の一撃一撃をかわし、またわずかに手を添えて力の方向を変え、エネルギーを殺して無効化する。それと同時に、鋭い鉤爪を閃かせ、『美味しそうな』首筋を狙うものの、こちらも読まれているらしく紙一重で避けられる。
 そんな、静かだが鋭い攻勢が十数分も続いた。
「……キリがねぇな」
 ぽつりとこぼしたのは理月だ。
 言うほど声は焦れておらず、虎視眈々とブラックウッドの隙を伺っているという印象だった。
「そうだねぇ」
 飄々と返すブラックウッドにも焦りはない。
 気の長さには定評のある彼だ、勝負を焦るつもりもない。
 だが、もっとも、このままではあまり面白くないのも事実だ。
 せっかくの『獲物』なのだから、少しくらい真面目に動くのも、たまにはいいかもしれない。
「それを億劫だと思っているのは、年を取った証拠かな。――まだまだ若いつもりでいるのだけれど」
 戯れるように嘯(うそぶ)き、狩人の眼差しで目を細めると、ブラックウッドは瞬時に行動に移った。素早い踏み込みで瞬時に距離を詰め、理月の懐に潜り込んだのだ。
 幸いにも、理月と彼との距離はわずかに二、三メートル。
 接近戦に特化したブラックウッドには、それほど難しくもない位置だ。
「う、お……っ!?」
 さすがにそこまで速いとは思っていなかったのか、驚愕の声とともに後退しようとする理月の腕をサッと捕え、反撃・逃亡の暇を与えずに、ブラックウッドはその足を強く払った。
 理月の、すらりとした長い脚が、絶妙のタイミングでかけられた力に抗えず、ぐらりとバランスを崩す。
「ち……」
 体勢を立て直そうとするのを許さず、するりと腕を絡みつかせて、理月の身体をリングに引き倒し、関節を極めて動きを封じる。
 ブラックウッドに組み伏せられて、理月が心底嫌そうな顔をした。
「あんたの得意はそっち系か。苦手なんだよ、関節技……」
 何とか身動きしようとするものの、ブラックウッドの手わざが完璧に極まっており、どうにもならない様子だった。
 ブラックウッドは艶然と微笑み、理月の滑らかな肌、いまだ固まらぬ血に濡れた頬に舌を這わせた。
「……ッ!?」
 まさかそういう『攻撃』を喰らうとは思わなかったのか、理月が硬直する。
「甘いね、とても」
「ううっ、なんだろう、なんかすげぇ貞操の危機っぽいぞ俺……!?」
 ブラックウッドの妖しい言動に理月が顔を引き攣らせる。
 大変満足の行く反応に、ブラックウッドはふふふと妖しく笑い、わずかに身体を移動させて、今度は理月の耳たぶを甘噛みした。こんなところまで、滑らかに美しい黒檀の色だ。
 噛まれた方はたまったものではなく、思い切り硬直したあと悲鳴を上げた。
「ぎゃーッ! やめろ、気色悪ぃってかくすぐってぇ! つーかそういうことはあんた好みの綺麗なお姉さんにしてくれ、俺を巻き込むなッ!」
「ふふふ、そうつれないことを言わずに。君のようなタイプも好みなのだよ、私は。綺麗な肌だね、磨き上げられた黒檀そのもののようだ」
「今この場で褒められても全然嬉しくねぇえ……ッ」
 シンと命のやり取りをしていた先刻よりも、よほど切実さ、必死さを増した理月が、何とかブラックウッドを振り解こうともがく。命の危機こそ遠いものの、色んな意味で危険は増している。
 理月の、鋭角的に整った横顔を堪能しつつ、ブラックウッドは彼を締め上げにかかった。ここで大人発言を楽しむのもいいが、ひとまず勝敗を決さなくては、と思ったのだ。
「っぐ……!」
 魔の者としての膂力に締め付けられ、理月が端正な顔を歪めて呻いた。
 ――無論、趣味と実益を優先させることも忘れないブラックウッドである。
「この首筋の滑らかさ、実に美味しそうだねぇ。一口くらい、味見してみてもいいかい? ……そうか、どうもありがとう、では早速」
「早速、じゃねぇ! 自己完結つーか自己決定すんなそこの魔性の男! いいなんてひとっことも言ってねぇだろ今!?」
 苦痛を凌駕する危機に、理月が恐ろしい勢いで突っ込むものの、すっかりその気になったブラックウッドを言葉だけで止められるはずがない。魔性の美壮年は妖艶な笑みとともに理月の首筋に顔を寄せた。
 その口元から、きらり、と、白い牙が覗く。
「く……っそ……!」
 それを察した理月が唸り、歯噛みした瞬間、不意にごきり、という鈍い音が響き、それと同時にブラックウッドの身体は弾き飛ばされていた。
「おや……?」
 ダメージ自体は受けておらず、くるりと回転して綺麗に着地し、体勢を整えたものの、その腕の中に理月の姿はない。
 ブラックウッドは首を傾げる。
 関節技――むしろ寝技と言った方が正しいかもしれない――を大の得意とする自分の手から、まさか逃れるものがいようとは。
「っ……つー……」
 見遣ると、戦いのダメージではない疲れからぐったりした理月が、左肩の関節をはめたところだった。自ら関節を外すことで空間的な余裕を作り、ブラックウッドの腕の牢獄から逃れたのだろう。
 ブラックウッドはにっこり微笑んだ。
「まったく素晴らしいね、理月君は。これで楽しみが延びた」
 ブラックウッドが本心から言い、再度身構えると、彼を見つめた理月は、しばし逡巡している様子だったが、ややあって片手を挙げて宣言した。表情が冴えないのは、肉体のダメージではない衝撃に疲れ果てたからだろうか。
「……駄目だ、やっぱ無理。降参する」
「おや」
 ブラックウッドが小さく首を傾げると、理月は大きな溜め息をついた。
 黒き傭兵の足取りに、隠し難い重さと疲労を感じ取り、ブラックウッドは理月の敗北宣言の意味を悟った。
「思ったより体力を消耗したようだね」
「あんだけばっちり極められた状態で暴れりゃな。くそ、身体が重てぇ……」
「それでも抜けたのだから、君は本当に凄いよ」
「褒め言葉と受け取っておくさ。大体、俺は基本的に一撃必殺型なんだ。あんたみてぇな持久型と、延々掴み合いなんてぞっとする。それに、なんか、毒気抜かれちまったしなぁ。今更殺し合う気にもなれねぇや」
 そんなわけだから、と、理月はひょいとリングの外に飛び降りた。
 痛むのか、それとも具合がおかしいのか、左肩を気にしつつ控えの場所へと戻ってゆく彼に、ブラックウッドは艶然と微笑み、それから少し残念そうにつぶやいた。
「……血をいただく機会を逸してしまったな」
「やっぱ狙ってたのかよ! 今自分の選択をすっげー褒め称えたくなった!」
「まぁ、焦ることはないからね。次を待つとしよう」
「ねぇよそんな『次』! 頼むからアダルトなお誘いはやめてくれ、俺がうっかりソノ気になっちまったらどう責任取ってくれんだあんた!」
「責任ならいつでも取るとも。そんな素晴らしい機会が訪れるよう切に祈るよ」
 どこまで本心なのか、それともすべてが真実なのか判然としない口調と表情でブラックウッドが言い、何を言っても無駄だと悟ってぐったり疲れた表情になった理月が控え場へと去って行く。

 第六試合の勝者はブラックウッド。
 これで準決勝出場者がすべて決定した。
 第七試合、すなわち準決勝一回戦は八之銀二と来栖香介。
 第八試合、準決勝二回戦はルイス・キリングとブラックウッドだ。



 9.鋼とナイフ

 準決勝一回目はそこから十分後に開始された。
 ゲートルードが始めの合図をしたあとも、前試合のブラックウッド節を目にした所為か、ふたりとも妙に毒気を抜かれた表情をしていた。
「……もしかしたら、オレかあんたのどっちかがコウモリのおっさんと当たるかもしれねぇんだよなぁ」
「ルイス君とて猛者だ、五分五分といったところだが、可能性はゼロではないだろうな」
「お子様のオレには、あのヒトの駄々漏れなフェロモンは辛ぇわ」
「実を言うと俺も太刀打ちできんような気がしている」
「……」
「……」
 双方、微妙な表情をかわしあったあと、
「ま、やるべきことに変わりはねぇな。あとのことはあとで心配すりゃあいい」
「そういうことだな。……では、よろしく頼む」
「お手柔らかに頼むぜ」
「香介君こそな」
 気を取り直して向き合い、身構える。
 銀二の巨躯、香介の痩躯から、陽炎のごとくに闘志が立ち昇り、揺らめいた。
 ふたりとも、前回の試合の影響で、調子は万全とは言い難い。
 銀二は、シュヴァルツの銀の糸によって縦横に切り裂かれた身体のあちこちを、血の滲む包帯でぐるぐる巻きにされていたし、香介は結局、クレイジー・ティーチャーからもらったきつい一撃のお陰で肋骨にひびが入り、内臓を少し損傷していた。
 むしろ、ふたりとも、『万全とは言えない』どころか、満身創痍といっても過言ではない状況だ。
 だが、双方の放つ闘気、殺気とすら表現できそうな鋭いそれから、彼らが抱える肉体の痛みを伺うことは出来なかった。痛みに慣れているのか、気にも留めていないのかは、彼らにしか判らないことだったが。
 ――最初に仕掛けたのは、香介だ。
「あんたには、ヘンな小細工は通用しなさそうだな……」
 硬い、頑丈なブーツが、がつりとリングを蹴る。
 獲物を狙う肉食獣の速さで銀二に肉薄し、香介は長い脚を巧みに操って蹴撃を放った。下方から斜め上へ、跳ね上げるように。
 肉体を有効な武器として扱える香介だ、その蹴撃は鋭く重く、そして容赦も躊躇もない。下手に喰らえば、骨ごと粉々に砕かれかねない、危険極まりない一撃だった。
「ッ、と……」
 銀二はその刃のごとき一撃を、感嘆の呼気とともに右の腕で受け止めた。がつり、という、十分に体重の乗った重いそれを、腹に力を込めて堪え、ほぼ同時に固めた拳で香介の腹を狙う。
「ぅお、っとぉ!」
 ダメージの蓄積したそこを、銀二の怪力で殴られてはたまらない。
 香介は仰け反るようにしてその拳を避け、そのまま後方へ跳び退いた。更に背後に退いて、稼いだ間合いはおよそ十メートル。投擲による攻撃には十分な距離だ。
 コートからナイフを数本引き抜き、指と指の間に挟んだ状態を維持しながら銀二を伺う。
 銀二もまたそのナイフに気づき、すっと目を細めた。
「君の投げナイフは怖いからな……」
「気ィ抜くと刺さるぜ、注意してくれよ?」
 軽い口調で言い、にやりと笑うと、香介はまた走り出した。
 銀二が同じく走り出すのを確認し、その足元目がけてナイフを放つ。
 鋭く空を斬った白刃は、狙い違わず銀二の足元へ飛来したが、
「まったく……どこでこんな技術を仕込んでくるんだ……?」
 銀二は感嘆とも嘆息とも取れぬ声で言い、絶妙のタイミングで横薙ぎに脚を払うと、刃の腹の部分を蹴飛ばして、ナイフを遠くへ弾き飛ばしてしまった。からぁん、という、間の抜けた音がする。
 足を止めぬまま、香介は呆れた声を上げた。
「あんたこそ、どこでそんなテクを習得してんだよ。普通刺さるだろ」
「……香港系マフィアとやりあったとき、向こうさんに投げナイフの達人がいたからな。そいつを倒すために培った技術だ」
「ったくどいつもこいつもありえねぇ技持ってやがる……」
 自分のことを完全に棚上げした香介が、気を取り直したようにナイフを構える。眼はすでに、狩る気になっている。
 空気をたわませて襲い来る拳を紙一重で避け、すれ違いざまにナイフを放つが、読まれていたらしく軽く身体をひねって避けられた。
「くそ、気心知れた相手ってのも案外やり辛ぇな」
「なんとなく、互いに読めるからな」
 言葉とともに、巨体に似合わぬ俊敏さで香介の間合いに踏み込んだ銀二が、香介の腹に鋭い拳を突き入れる。
 ゴッ、という衝撃。
「ぐ……!」
 防ぐことも避けることも出来ず、馬鹿正直に一撃もらい、香介は苦悶の声とともに吹っ飛んだ。先刻手負った傷が、みしりと音を立てたのが判る。弾けた感覚は、痛みというより熱だった。
 だが、香介とてそのままやられっ放しではいない。
 吹き飛ばされつつ、彼は、手にしたままのナイフを、モーションの大きな一撃を放ったがゆえに隙の生まれた銀二目がけて投擲した。その瞬間には、いっそ殺してやろうとすら思っていた。
「くッ」
 狙いは急所だったが、勘付いた銀二が咄嗟に身を捻ったので、それで彼を戦闘不能に陥れることは出来なかった。刃は銀二の左肩口に突き刺さり、深々とめり込んで、元極道の男に苦悶の表情を浮かべさせただけだった。
「……やるな、やはり」
「あんたもな。さすがに効いた」
 ナイフを引き抜いた銀二が、溢れ出す血など気にも留めぬ様子で言い、香介もじくじく疼く腹をさすりながら返した。
 無論、戦意はまだ衰えていない。
「……やっぱ、この方法じゃあんたを倒すのは無理か。刺さるだけじゃ、イマイチ戦意を削げねぇもんな」
 斬り裂き斬り開くことで傷口は大きくなり、ダメージも増す。『点』である投擲より、普通の使い方をした方が有効だと判断し、香介は無造作に手に残った投擲用のナイフを投げ捨てた。
 そして、コートの内側から、一体何のために持ち歩いているのかと詰問されそうな、刃渡り三十cmほどのナイフを引き抜く。
 差し込む陽光を受けて、刃が凶暴なまでのまぶしさで輝いた。
「行くぜ」
「おう、来い」
 笑って告げた香介が、銀二目がけて疾走する。
 銀二も、口元をわずかに緩めて応え、身構えた。
 彼らにとって、十メートルやそこらの距離などわずかな隔たりに過ぎない。瞬きの間に銀二の元へ辿り着いた香介が、獰悪に自己主張するナイフを一閃させる。
 じゃっ!
 鈍い擦過音は、左上がりに刎ね上げられたナイフの切っ先が、銀二の衣装を捉え、引き裂いたためだ。布地が切れ、包帯に覆われた胸元があらわになったが、傷そのものは与えられていない。
「ちっ、浅かったか」
 ごちると同時に素早く手首を返し、首筋を狙って一薙ぎ。
「ぅお……!」
 間一髪、仰け反るように切っ先を避けた銀二の懐に、ナイフが交わされると同時に踏み込んで、先刻のお返しとばかりに香介は肘突きを叩き込んだ。肘は銀二の、六つに割れた腹筋へと吸い込まれる。
「がッ……は……!」
 苦悶の表情と呻き声とともによろめく銀二の右頬へ、更に踏み込んで拳の一撃をお見舞いする。
 ついつい、いつものクセで、ほぼ無意識に手を庇ってしまい、それほど力は入っていなかったが、衝撃であったことは確かなようで、銀二の巨体が更によろめき、後方へたたらを踏む。
 香介は興奮に濡れた目を細めて唇を舐め、ナイフを握り直した。
「これが永遠に続きゃあいいのに」
 恋人との逢瀬でもこうまで甘くはあるまいというような、心からの言葉をつぶやき、銀二の懐へ飛び込む。
 そして、銀刃一閃。
 ざくり、という、重い手応え。
 手にした刃物が、生きた肉に深々と埋まる感覚が伝わってくる。
「ちっ」
 だが、舌打ちをしたのは香介の方だった。
 香介は銀二の胸部を狙ってナイフを繰り出したつもりだったのに、その刃は、銀二の分厚くたくましい掌によって受け止められ、握り締められていた。ずぶずぶと埋め込まれてゆく鋭い刃に、確かな苦痛の表情を浮かべつつ、銀二の目は冷徹に香介を見据えていた。
 香介がナイフを手放して後方へ跳ぼうとするより少し早く、伸ばされた腕、無事な方の手が、香介の胸倉をむんずと掴んだ。振り払うことも出来ない強い力に喉元を締め上げられ、息が詰まる。
「うお、おおおッ!」
 裂帛の気合いが空気を震わせると同時に、足元に鋭い衝撃があった。ああ足を払われたな、と思うよりも早く、香介の身体は勢いよく宙を舞っていた。次の瞬間には、受身を取ることも出来ずに、背中から硬いリングへと叩きつけられている。
 銀二が片手だけで自分を投げ飛ばし、リングへ叩きつけたのだ、と気づいたのは、背中を強かに打ち据えたあとのことだった。
 いまだ萎えぬ闘志に応え、飛び起きようとした香介だったが、
「う……くっ!」
 びりびりびりっ、と、意識を失いそうな痛みが全身を襲ったので、それは果たせなかった。起き上がるどころか、小指一本動かせず、大の字になって荒い息を吐く。
 その傍らに銀二が屈み込んだ。
 香介は、ともすれば苦痛にかすみがちになる目を開き、晴れやかに笑う。
 悔しさよりも、充足感の方が大きかった。
 全身全霊で戦い、敗れたのだ、何を悔やむこともない。
「……負けちまったな。ギブアップだ、指一本動かねぇ」
「の、ようだ。だがこっちも危なかった、下手をすれば死ぬところだったな」
「そのつもりでイッたからな、当然だ」
「……怖い男だな、君は」
「んだよ、今更判ったのか?」
 軽口を返す香介の元へ、担架を担いだ救護班がやってくる。
 様々な肌の色をした悪鬼たちに抱え上げられながら、香介は銀二を呼んだ。
「どうした?」
「オレに勝ったからには優勝しろよな」
「ああ。ここまで来たからには」
「期待してる」
 微苦笑とともに、強い意志を載せて頷く銀二へ親指を立ててみせ、香介は担架に横たえられた。
 深い深い暗黒が、苦痛とともに意識を侵食してくるのが判る。
 もしかしたら、このまま二度と目覚めないのかもしれない。
 それほどの苦痛だったし、闇は深かった。
 ――けれど、それでも、香介は満ち足りていたのだ。
 口に出して言えば、呆れられるかもしれないが。

 第七試合の勝者は八之銀二。
 第八試合は、ルイス・キリングとブラックウッドだ。



 10.狩り

 第八試合はそこから十分後に始まった。
 どこまでも優雅な物腰で佇むブラックウッドと向かい合い、ルイスは茶目っ気たっぷりにウインクしてみせる。
 手には、白銀に輝く長剣。
「や、待ちくたびれるとこだったぜ、マジで待ち侘びた。狩る者と狩られる者、配役は合ってんな。あとは役者次第ってか! 腕が鳴るぜ!」
 ルイスのいたずらっぽい、しかし本気を込めた言葉に、ブラックウッドは艶然と微笑む。
「私も楽しみだよ。どんな素敵なダンスを踊ってくれるのだろうね、君は」
「あんたのご期待に添えるよう、精々気張るさ」
 ――ゲートルードの胴間声が試合の開始を告げる。
 その場に佇んだまま動かないブラックウッドを見据え、ルイスは剣を構えた。先刻の、理月との戦いを見るに、寝技に持ち込まれると非常に不利だ。というか、気持ち的に出来れば持ち込まれたくない。
 ならば、素手であるブラックウッドの、リーチの短さにつけ込んで、武器を用いて畳みかけるのが一番だろう。
 無論、口で言うほど容易い相手ではないことは百も承知だが、そもそも彼は凄腕の、トップクラスの吸血鬼ハンターだ。
 出身世界こそ違えど、吸血鬼の長老格と呼ばれる人物を前にして興奮しないはずがない。己が実力がどこまで通ずるのか、強き古き者“エルダー”を狩ることが出来るのか、何が何でも試してみたいと思うのは当然だ。
「『銀のロザリオ』ルイス・キリング……推して参る!」
 高らかに告げ、ルイスは駆け出す。
 半吸血鬼たる彼の身体能力は、人間のそれなど歯牙にもかからないほど高い。半分ずつの血を恨めしく思うことがないとは言わないし、厭うていないとも言い切れないが、こと戦いにおいて、ルイスはこの血に感謝している。
 ヒトのしなやかさと、魔の強靭さと。
 それは間違いなく、ルイスの強さの根本なのだ。
「おおおっ!」
 ルイスは、雄々しい鬨の声とともに、飄々と佇むブラックウッドへ突進し、組み手を避けてすれ違いざまに剣を一閃させる。肉に刃が潜り込む慣れた感覚のあと、硬い骨をがりりと削る手応えが伝わってきて、ルイスは自分の初太刀がブラックウッドに届いたことを理解する。
 あわよくば首を、と思っていたのだが、さすがにそう甘くはなく、剣は咄嗟に身を捻ったブラックウッドの右上腕に食い込み、それを半ばまで切り離したに過ぎなかった。
 もっとも、骨を断ったのは事実のようで、ブラックウッドの腕が、だらりと垂れ下がるのが目に入る。
「……ふむ、少し反応が遅れたようだね。気をつけないと」
 しかし、すでに死者であるがゆえに、ブラックウッドの身体が血を流すことはなく、半ばから断たれた腕も、彼が反対の手で傷口に押し付けるようにすると、あっという間に癒着してしまった。
「あー、やっぱ駄目か、もっとしっかり斬らねぇと。エルダー相手にちまちま傷つけて喜んでたって仕方ねぇわな、そりゃ。はー、能力使えりゃ簡単なのになー……って、こういう単純な殺り合いも好きだけどさ」
「ふふ、そうだね、一番確実なのは爆弾か何かで吹き飛ばすことだろうけれど、それはルイス君の流儀に反するだろう?」
「手榴弾持って走り回る吸血鬼ハンターってのは知らねぇなぁ。つーか微妙にカッコ悪くねぇか、それ?」
「さて……恰好のいい悪いは私の断ずるべきところではないが。さあ、ではどうするね、ルイス君」
「決まってる。ここで躊躇してたって始まらねぇ、続きと行こうじゃねぇか」
「よろしい。来たまえ……お相手しよう」
「吸血鬼ハンターの名にかけて、狩らせてもらうぜ……!」
「ふふふ、頼もしいねぇ」
 ゆったりと笑うブラックウッドへ切っ先を向け、ルイスは再度突撃を試みる。ブラックウッドの懐まではおよそ八メートル。飛ぶように駆け、銀の剣を振りかぶる。
 剣閃は右下段から斜め左上へ。
 膂力に任せて、腹から首まで断ち切ってやろうという意図のもとに揮った剣だったが、
「……ちっ、やっぱそう簡単には行かねぇか」
 ルイスが舌打ちするように、ブラックウッドは流れるごとくに優美な動きで手を伸ばし、剣の腹を軽く払うようにして死の一刃を回避してしまった。
 人体を丸太のように容易く切断する、重く速い斬撃を、まるで軽やかな風船か何かのようにあしらわれ、ルイスは一瞬、胸中に嘆息する。
 ものを言っているのは、恐らく経験という名の積み重ねだ。
「くそ、やっぱエルダーは違うな」
 優雅な所作とは裏腹の、素早い手に絡め取られ、寝技に持ち込まれてしまわぬよう、後方へ跳んで距離を取りつつルイスはつぶやく。愚痴めいた言葉をこぼしつつも、その青の眼は笑っていた。
 強い相手との戦いは楽しい。
 強靭な獲物を相手にする狩りは楽しい。
「次々行くぜ……!」
 ふ、と息を整え、再度ルイスは斬りかかる。
 下段から上段へ、上段から下段へ、横一文字に一薙ぎし、心臓を狙って剣を突き入れ、首を断つべく上段を水平に。空気を斬り裂く、恐ろしく凶悪な音がリング上に響く。
 洒落では済まされない、多分に本気の殺意を含んだ剣閃を、しかしブラックウッドは滑らかな動作で避けた。回避というより、舞の一貫と表現する方が相応しいだろう、やわらかく優美な動きだった。
 ルイスの猛攻をすべてかわしきったあと、ブラックウッドは無造作に次の行動に移る。
 先刻理月との戦いでしたように、ルイスが思わず我が目を疑ったほどの素早さで彼の間合いに入り込み、するりと手を伸ばしてルイスの身体を捉え、押さえ込みにかかったのだ。
 手首を掴まれ、魔性の膂力に掌を開かれて、剣を取り落とさざるを得なくなる。倒れた剣を、ごくごく自然な動作でブラックウッドが蹴り飛ばし、手の届かない場所へ追いやってしまう。
 ガラン、とリングを転がる愛剣を、ルイスは視界の隅に見つめていた。
 もっとも、理月がなすすべもなく押さえ込まれ、色々な危機にさらされたそれを、ルイスは甘んじて受けようとはしなかった。先ほどの試合を見て、多少の心構えがあったというのもある。
「ただじゃあ、やられねぇぞ?」
 にやりと笑うと同時に、自らブラックウッドの身体を抱え込むようにして、エルダーたる吸血鬼の首筋に噛み付く。痛みなど感じてはいないのだろうが、さすがに驚いたらしく、ブラックウッドの動きが一瞬止まった。
 それを見逃さず、ルイスはブラックウッドの腕を振り払い、瞬時に距離を取った。残念ながら、彼が着地したのは剣が転がっていった方向とは反対だったが、身体さえ自由なら武器などなくとも何とかなる。
 ブラックウッドから、苦笑らしき呼気が伝わってくる。
「……これは驚いた。ルイス君にはそういう攻撃方法もあるのだね」
 ルイスは唇を舐め、にやりと笑った。
「すまねぇな、お育ちが悪いもんで」
「いやいや、稀有な経験だったよ。噛むことはあっても、噛まれることはなかなかないからね」
「なるほど、そりゃまぁそうだ」
 淡々と、飄々と軽口を交し合ったのち、ルイスは次の攻撃に移る。
 彼の爪が、ブラックウッドと同じように、いつの間にか鋭く長く延びていたことを、吸血鬼の長老格は気づいていただろうか。
 ブラックウッドが完璧なる待ち伏せ型である以上、自ら突っ込むことで危険は増すが、吸血鬼ハンターとしての矜持が、ルイスに立ち止まることを許さないのだ。
 力に満ちた長躯を一個の武器にして突っ込んでくるルイスに、ブラックウッドは目を細めてつぶやいた。
「……君は癒してくれるだろうか、私のこの渇きを」
 終わりのない飢餓から、真に解放されるなら、それこそ諸手を挙げて歓迎するだろうが。
 しかし……恐らく、きっと、それは今このときではない。
 ブラックウッドに敗れるつもりはなかったし、根拠もなかった。
 双方、頼れるものは己が腕だけ。
 狩る者と狩られる者、そう称される関係の優越をはっきりさせるには、またとない機会だ。
 鉤爪の輝く手にほんの一瞬視線を落とし、ブラックウッドは、突進してくるルイスを冷静な眼で見つめた。彼の手元がきらりと光ったのは、同属としての証しだろう。
 振りかぶられた腕は強く、たくましく、速い。
 だが。
「ならば……更に速く」
 つぶやき、首筋を正確無比に狙ったルイスの一閃をかわすと、ブラックウッドは身をかがめてルイスの懐へ滑り込んだ。反撃する暇も、後退する時間も与えず、胸倉と手首とを素早く掴むと、外見からは想像もつかぬ、魔物の膂力をもってルイスの長躯を投げ飛ばす。
「うお……っと……っ!」
 無論それだけでは大したダメージにはならず、ルイスは空中で一回転して体制を整え、着地したのち一気に反撃する心積もりでいたのだが、
「ここで摘み取るとしよう」
 ――しかし。
 ルイスがまさに着地しようとした場所から、ブラックウッドの穏やかな声が響いた。
 そして、ルイスの目論見を看破して、わずかな、瞬きほどの間に、素早く動いた彼の鋭い掌底が、弾丸さながらの衝撃でもって、ルイスの長躯を弾き飛ばした。
 ガッ、という鈍い打擲音とともに、放物線を描いてルイスが吹き飛んだ先は、――リングの外、だった。
「あー……」
 背中から地面に墜落して、ルイスは呻く。
 痛みに、ではなく、単純に無念だったのだ。
 それと同時に、自分にはまだまだ足りないものがあることを強く意識する。
 足りないものを磨くことで、自分はまだまだ強くなれるのだ、とも。
 吹っ切るように深呼吸をしたあと、ルイスは勢いよく飛び起きた。
「ハンターひとりで長老格に挑むのは無謀だったか。勉強になりやした!」
 敬意を込めて一礼する。
 ブラックウッドもまた、リングの上で、優雅に一礼してみせた。
「楽しかったよ、いい経験だった。また機会があればお願いしたいね」
「ああ、そのときは絶対にオレが勝つ」
「ふふふ……頼もしいね」

 第八試合の勝者はブラックウッド。
 こうして、最終試合、決勝戦への進出者は、八之銀二とブラックウッドに決まった。



 11.ケダモノたちのダンス

 最終試合はそこから十分後に始まった。
 ゲートルードの告げる戦いの開始を、どこか感慨深く聞きながら、銀二はブラックウッドと静かに対峙していた。
 まさか自分が決勝戦進出とは、自ら参加しておきながら思ってもみなかった、というのが正直な気持ちだ。
 当然のことながら、先ほどの傷は少しも癒えてはおらず、まだ出血も止まってはいなかった。銀二の全身は、まるで痛みと熱にくまなく覆い尽くされているかのようだ。
 対するブラックウッドはほとんどダメージらしいダメージを受けてはいない。ルイスによって半ばまで切断された腕も、今では、スーツがそこだけ破れているということでしか伺えなくなっている。
 ――同じムービースターとはいえ、あまりにも基本性能、意義や意味が違いすぎるのではないか、と、思わなくもない。
 元極道でしかない自分と、“エルダー”として千年二千年の永きを生き、経験という名の貴重な積み重ねを繰り返してきたブラックウッドでは、あまりにも戦闘能力に開きがありすぎるのではないか、と。
 無謀だと、思わないわけではない。
 ただでさえ基本的スペックが違うのに、万全ではない、どころか、満身創痍としか言いようのない自分と、なお余力を残したままのブラックウッド。
 どちらが有利かなど、最初から決まりきっている。
「……だが、やるからには、勝つ」
 それでも折れぬ闘志は、きっと、彼もまたこの戦いを心底楽しんでいるからこそのものだ。
 銀二の、自分に対する誓いのような言葉に、ブラックウッドが微笑んだ。
 魔性の美壮年の面目躍如とでも言うような、性差関係なしに他者を魅了する笑みだった。
「いいね、銀二君のその眼差し。私まで、熱くなるよ」
「及ばぬところは多いだろうが、精一杯やらせてもらう」
「ふふふ……頼もしいね。では、始めようか。魔王陛下をはじめとした、観客の皆様方を退屈させぬよう、精々美しく踊るとしよう。せっかくの機会だ、私も、出し惜しみはしないつもりだよ」
「それは……少し、怖いな」
 苦笑とともに、銀二はブラックウッド目がけて走り出した。
 一歩踏み出すごとに、一歩踏み締めるごとに、全身が心臓になってしまったかのような気持ちになる。痛みに前身が脈打つのが判る。
 だが、今更痛みが銀二の足取りを重くすることはないし、彼がそれに頓着することもない。
「うお、おッ!」
 巨躯に似合わぬ俊敏さ、傷を思わせぬ力強い足取りでブラックウッドへと肉薄し、銀二は握った拳を振りかぶった。そして重い踏み込みとともに、十分に体重を乗せて振り下ろす。
 銀二お得意のビッグパンチ……最初のモーションこそ大きいものの、空を斬る拳は速く、また、重い。
「おお、怖い。粉々に砕けてしまいそうだよ」
 ブラックウッドはその速さに感嘆しつつも、冗談めかした言葉とともに拳をかわした。強い一撃が空振りすれば大きな隙になるのはどんな攻撃でも同じことで、銀二がわずかに上体のバランスを崩したのを見逃さず、ブラックウッドはそのまま銀二の腕を捕らえにかかった。
 虚しく空を斬るたくましい腕に、驚くべき滑らかさで己が手を差し伸べ、力を巧く殺しながら関節を極めてしまおうと思っていたブラックウッドだったが、その目論見は残念ながら果たせなかった。
「その手は食わん」
 冷静な声とともに、半ばまで腕を絡め取られていた銀二が、後方に退くのではなく、あえてブラックウッドの懐へ突っ込んだのだ。肉体のサイズ、それの孕む瞬発的なエネルギーという点では、銀二の巨躯は申し分なくブラックウッドのそれを凌駕していたから、エルダーたる老吸血鬼は、銀二に体当たりされたかたちでよろめくことになった。
 すぐに体勢を立て直そうとしたブラックウッドだったが、そこを狙って銀二は更に追い討ちをかけた。いまだ体勢の整わぬブラックウッドの懐へ再度飛び込むや、先刻空振りしたのと同じパンチを、ブラックウッドの胸元へとお見舞いしたのだ。
 どすっ、という、低く鈍い打擲音。
 自称一般人とはいえやはりムービースターたる銀二の膂力は強く、ちょっとした規格外もので、ブラックウッドは声もなく吹き飛んで、硬いリングに叩きつけられた。
「……やれやれ、無様なところを見せてしまった。油断大敵、だねぇ」
 嘆息しつつも、ダメージそのものは伺わせぬ風情で飄々と――軽やかに身を起こし、再び無造作に身構える。銀二を見つめる黄金のアーモンド・アイズが、紛れもない喜悦と興奮を含んで細められた。
 銀二もまた、無造作に、しかし油断も隙もなく身構えつつ、ブラックウッドの視線を真っ向から受け止める。
「ああ……本当に、楽しいねぇ。死したる冷たき我が身に、生ある熱き血が通うかのような興奮を覚えるよ。銀幕市に実体化して本当によかった、こうして、様々な猛者と渡り合うことが出来るのだから」
「そうだな、違いない。俺も、それを真実幸運だと思う」
 静かな、満ち足りた言葉を交わしたのち、
「さて、では第二ラウンドと行こうか」
「ああ」
 ふたりは向き直った。
 きつく拳を握った銀二が、ブラックウッドの動きを警戒しつつ彼に近づいてゆく。
 ブラックウッドの手元には鋭い鉤爪が光った。隙あらば血を、という意識の元、口元には牙が白く輝く。
 双方、互いの間合いまで一メートル、といった位置で、最初に仕掛けたのはやはり銀二だった。
「……待つというのは性分に合わなくてな」
 低いつぶやきとともに、パワーもスピードも十分に乗った拳を叩きつける。
 ゴウッ、という擬音が似合いそうなそれを、ブラックウッドは髪の毛一筋の差で避け、お返しとばかりに、ナイフを彷彿とさせる鉤爪を、銀二の首筋目がけて一閃させた。
 だがそれも紙一重で避けられ、鉤爪は銀二の髪を数本、斬り散らしただけだった。
 すぐに銀二の裏拳がブラックウッドの顔面を狙い、容易くかわしたブラックウッドの爪の一閃と、それに続けて伸ばされる、関節技を狙った腕を、銀二は身を低くすることで避けた。
 避けると同時に、飛び上がるようにしてブラックウッドの顎に頭突きを喰らわせる。そこまでは読みきれていなかったのか、それとも速すぎて回避し切れなかったか、ブラックウッドの下顎部が鈍い音を響かせた。
「……さすがに、少し効いたよ」
 静かな声には、しかし、紛れもない興奮の色がある。
 強烈な頭突きを受けてよろめいたかに見えたブラックウッドは、自ら近づいて来たに均しい銀二の首を魔物の膂力で持って抱え込むと、その首筋目がけて牙を突きたてた。
 ――つもりだったが、銀二がわずかに身をひねったため、鋭い牙は銀二の肩に突き刺さり、ぶつり、と音を立てた。
「つッ」
 魔物の牙を受けて、銀二が低く呻く。
 しかし彼は怯まず、己が首を抱え込む腕を、非常識とすら言える腕力で力任せに引き剥がし、リング目がけて思い切り叩きつけた。
 無論、容易く他者の思い通りになるブラックウッドではなく、腕が引き剥がされた瞬間受身を取っていた彼に、大したダメージを与えることは出来なかったが。
 そのまま素早く跳ね起き、銀二から距離を取る。
 銀二も警戒を解かぬままブラックウッドを見つめた。
「……ふふふ」
「ははっ」
 笑い声がこぼれたのは双方同時だ。
「さすがだね、銀二君」
「ブラックウッドさんこそ、やはりすごい」
「君と、ここで、こうして決勝戦を戦えたことを誇りに思うよ」
「……もったいのない言葉だ」
 口元に笑みをたたえて言い、次を最後に、といわんばかりの勢いで、銀二はブラックウッドへと突っ込んでゆく。
 ――もはやすでに、優勝とか、一番の猛者だとか、そういうことのために戦うわけではなかった。それは結局のところ、行き着く果て、結果に過ぎないのだった。
 自分の持てるすべての力を出し切って対戦者に報いることこそが、いまの銀二が果たそうと思う十全だった。
 視線の先で、ぎらり、とブラックウッドの鉤爪が光る。
 ブラックウッドもまた、陽炎のごとくに闘志を漲らせていた。
 自分がここまで熱くなれることを稀有だと思っていた。
 その稀有な瞬間を与えてくれたこの場、この時に、言葉なく感謝する。
「おおおっ!」
 猛々しい雄叫びとともに、弾丸のような速さと重さで突っ込んできた銀二を、ブラックウッドの鉤爪が容赦なく襲う。避け損ねれば首筋を切り裂かれ、なすすべもなく絶命するだろう凶悪さだった。
 否、普通の人間ならば、そうなっただろう。
 だが、全身を痛みと熱に苛まれながらも、強い戦意に支えられ、限界を超えるとすら言える力を発揮した銀二は、常人離れしたと表現して差し支えない体機能でもって、その必殺の一閃をかわした。
 ひゅっ、と、ブラックウッドの手が空を斬る。
 だがブラックウッドもさるもの、そちらの手が避けられることを見越して、反対の手もまた攻撃態勢に入っていた。下段から、銀二の体表を滑るようにして突き上げられた手、鉤爪が、銀二の動脈を貫き、引き裂かんとする。
 だが、
「は……っ!」
 銀二は低く息を吐き、来栖香介との戦いでずたずたになった方の手で、ブラックウッドの鉤爪を止めた。
 包帯で覆い尽くされた手の平に、鋭い鉤爪がずぶずぶとめり込み、新たな血をほとばしらせたが、銀二はそれに一切頓着せず、無造作に――激しい勢いで、ブラックウッドの手を払い飛ばした。
 そのあまりの勢いに、ブラックウッドが体勢を崩す。
「く……」
 漏れた声には、ブラックウッドには珍しく、わずかな狼狽が含まれていた。
 銀二は無論、そこでできた隙を見逃さなかった。
「うお、お、おおおおおっ!」
 ブラックウッドの懐へ、これを最後と飛び込んだ銀二の、ずいと掲げられた脚が、渾身の力でもって老吸血鬼を蹴り飛ばす。

 ずど、おぉん!

 銀二必殺の、映画お約束の、そしてこれまでに数多の障害物を蹴り抜いてきた『ヤクザ蹴り』。
 それは見事にブラックウッドの身体を捕らえ、恐ろしい勢いで彼を弾き飛ばした。
 なすすべもなく吹っ飛んだブラックウッドは、リングに激しく叩きつけられて、それでも『ヤクザ蹴り』の勢いを殺しきれずに滑らかな石盤上を何度かバウンドし、数メートル転がった後ようやく止まった。
「……ふう」
 リング上に大の字になり、ブラックウッドは溜め息をつく。
 『ヤクザ蹴り』の衝撃で、身体の内部のあちこちに傷がいったようだ。彼は痛みを感じないが、身体が動かしにくくなったことは判る。
「これは、私の負けだね」
 先の試合で負った傷が開いたか、全身から血を滴らせているといって過言ではない銀二が、しかししっかりと両の脚でリングを踏み締めて立っているのを確認し、ブラックウッドはそう宣言した。
 先刻の『ヤクザ蹴り』を喰らった瞬間から、ブラックウッドは自分の敗北を悟っていた。続行できないわけではないが、恐らく、この先延々と戦ったとしても、銀二の闘志は決して折れないだろう。
「強いね、銀二君は。……いい経験をさせてもらった、楽しかったよ。本当にありがとう。機会があれば、またやりたいね」
「俺こそ、この短い時間に様々なことを学ばせてもらった気がする。ありがとう、ブラックウッドさん」
 銀二は血まみれの手を差し出して、ブラックウッドを引っ張り起こした。
 ゆったりとした足取りで立ったブラックウッドと銀二は、再度かたい握手を交わす。
 ゲートルードが勝者の名を高らかに告げると、剣の塔の覇者を讃える声で、会場は割れんばかりに鳴り響いた。

 こうして剣の塔の勝者は決定した。
 勝者の名は、八之銀二。
 その名は、永く剣の塔に刻まれ、地獄住民たちに、畏怖を持って語られることとなるだろう。



 12.栄冠は彼の手に

 そこから一時間後。
 リングの上に大会の参加者たちが勢ぞろいしていた。
 もちろん、最高の栄誉を受ける銀二を讃えるためだ。
「見事な戦いだった。堪能させてもらったぞ」
 魔王の繊手が、銀二の頭上に勝者の証しを載せる。
 “勝者の業冠”は、剣に喰らいつく竜を象(かたど)った、黒銀という、地獄でもっとも貴重といわれる金属で作られた冠だった。獰悪な題材を扱っていながら繊細で美しい細工と、要所要所にはめ込まれた美しい宝石たちは、観るものすべての目を奪うのだった。
「ありがとう、なにやら信じられんが、事実のようだな」
 全身を新しい包帯でぐるぐる巻きにされながら、銀二がはにかんだように笑う。
 銀幕市から参加したメンバーたちは、満面の笑みで拍手喝采し、やんやと囃し立てた。
「よっ、ニクイね大将! あんたならやるって信じてたぜ、オレ!」
「やっぱすげぇな、銀二さんは。出来れば俺も当たってみたかった。またやんねぇかな、こういうの」
「それを言うなら、オレは理月さんともやってみたかったけど」
「ふうん、確かにトトとやんのも悪くなさそうだな」
「あ、オレも理月さんとやりたかったな。忘年会の時の借りをまだ返してねぇじゃん、オレ」
「いつでも受けて立つぜ?」
「おうよ」
「オレはもっと他の皆と当たりたかったな。誰も彼もあれだけ強いんだから、きっと、もっといい経験になったと思うからさ」
「それは光栄だ……って言いてぇけど、シュヴァルツのアレはおっかねぇよなぁ。正直、あんまり喰らいたくねぇな、俺は」
「ねぇねぇトトクン、今度こういう機会があったらボクとやろうよ。君の……っていうか獣人のカラダがどうなってるのか、すっごく興味があるンダ♪」
「いやあのっ、戦うのは別に構わねぇけどっ。なんかあんたのその口調からは解剖とかそっち方面を感じるんですが……!?」
「最終的にやることは一緒なんだカラ、別にいいじゃン」
「よくねぇよっ! 掻っ捌かれたら死ぬっつーの!」
 どこまでもにぎやかな面々を、ブラックウッドがくすくす笑いながら見つめている。
 銀二もまた笑って、少々気恥ずかしげに、“勝者の業冠”を被ったまま、一同の元へ戻ってきた。
 そこへ、
「おお、そうだ、忘れるところであったぞ」
 どこまでも美麗な魔王陛下の声が響き、
「もうひとつの賞品だ、好きにいたすがよい」
 はかなげですらある白い繊手が、ものすごい諦めの表情で傍に控えていた唯瑞貴の首根っこを引っ掴み、自分で歩ける、という抗議の声を完全に無視してずるずる引きずると、銀二の前にひょいと転がした。
「……」
「……」
「……」
 参加者一同、ものすごく微妙な表情であちこち顔を見合わせる。
 唯瑞貴が盛大な溜め息をついた。
 どうにでもしてくれ、といった表情だ。
「……本当は」
 口を開いたのは銀二だ。
「俺が途中で負けたら、こっそり唯瑞貴君とすりかわろうと思ってたんだ」
「そうなのか。だが、何故」
「ほら、この前、森の女王の件で借りを作っただろう、君に」
「借り? そんなもの、あったか?」
「作ったんだよ、俺としては。だから、恩返しがしたいと思ってな」
「恩にもなっていない、気にしないでくれ」
「……そう言うと思ったよ。まぁ、俺が勝ったようだから、俺が好きにしていいんだよな。なら、君はもう自由だ、何もしなくていい」
 言いつつ、いまだに唯瑞貴の手首を縛める縄を解いてやる。
 唯瑞貴が安堵の息を吐いた。
「ありがとう、なんというか……感謝する。今度、お礼に『楽園』の茶でもおごるよ」
「ははっ、気にするな。同性だからとか以前に、他者に無理強いする趣味はないしな」
 笑って唯瑞貴の肩を叩く銀二の横で、残念だねぇ、優勝したらあんなことやこんなことをしてみたかったのに、と、妖艶な微笑とともに大人発言をかますのは、恐らく優勝していればもっとも唯瑞貴が大変な目にあっただろう魔性の美壮年だ。
 彼の流し目を受けて唯瑞貴が思わずかたまり、その発言に色々思い出したか、理月まで顔色を悪くしている。
 その表情が面白かったのか、ぷっ、と、誰かが吹き出した。
 それにつられて、誰かが笑い出す。
 笑いはすぐに伝播して、やがて皆が、肩を叩き、腕を組み、拳をぶつけ合って笑った。
 魔王陛下が艶然と微笑み、その傍に控えたふたりの貴公子が敬意を込めて一礼する。
 観客席からは、割れるような拍手が鳴り響いていた。



 こうして、剣の塔における戦いは、最強の猛者を迎えて幕を閉じた。
 ――無論それは、ひとまず、というくくりではあったのだが。

クリエイターコメント大変お待たせいたしました。
『挑め、剣の塔!』をお届けします。
またしても最長記録を樹立してしまいましたが、ものすごく楽しんで書かせていただきました。皆様のご参加と、アツいプレイングに感謝いたします。

優勝なさった銀二さん、おめでとうございます。敗れてしまった方々には大変申し訳ありませんでした。ですが、皆さん、かっこいい戦闘スタイルがおありで、プレイングを拝見してわくわくいたしました。

ほとんど戦闘シーンで形成されたお話だけに、冗長にならぬようあれこれ思案して書いたつもりですが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
ご好評のようでしたらまたやりたいなぁともくろんでいますので、よろしければこっそりご一報くださいませ。というか、次はペア戦とかどうかなぁと思っている次第です。

なお、お話の中で某氏が口にしておられた英文や、某氏が口ずさんでおられた英語の歌は、雰囲気を楽しんでいただきたいという理由で和訳しておりません。もしも「判んねぇよ! でも知りてぇ!」という方がおられましたら、こっそりご一報くださいませ。

それでは、ご参加及びご読了、どうもありがとうございました!
公開日時2007-02-01(木) 21:50
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